、皮肉なことに、この男の家があつた。二階家で、墓参の途中一寸頭を廻せば二階の様子などはまるで見透しだつた。墓水を桶に入れて丘の上まで持運ぶのは中々の苦労であつたが、その男の家の井戸は直ぐ眼の先に見え乍ら、どんなことがあつても彼奴の家の水は貰ふな、と兄姉はその度に戒《いまし》め合ひ、あらためて彼の小肥りに肥つた様子を罵つた。その頃からこの男は高利貸を始めたと言ふことであるが、二階の障子は常時閉められてあつた。一度、軍治と卯女子とこの路を降りる時、二階で誰かと対談してゐる彼を見たが、姉は口早に、見てはいけぬ、と、軍治に鋭く言ひ自分も殊更顔を外向《そむ》けた。彼は確かに此方を振り向いたのだが、思ひなしか心持白んだと見える顔を対談者の方に返してぢつくりと自分の身体を下に押し着けてゐる風な肩つきを見せたのである。
一度は彼の方で此方の挨拶を待つかのやうにぢつと眼を送つてゐたが、さうなると猶のこと軍治達は横を向いたまま通り抜けるのだつた。会ふ時には会ふものと見えて、それからは続け様に二階と墓路との反目を続けたのであるが、彼は上眼で見ては止めたり、又或る時なぞは上手から降りて来る軍治達を迎へて、二階の窓に真正面に向きなほつてゐたりした。
其後暫らく会はないでゐたが、矢張り何かと伝へて呉れる人があつて、彼は益々|強慾《がうよく》になり貸金の回収手段の非道《ひど》さは随分泣かされてゐる人間も多く、家作も次々に建てたが、最近手を出した製氷所が失敗して、癲癇《てんかん》になつたのも積悪の報だらう、と云ふ噂を聞いた。F市の大学病院に入つたと云ふ話も耳にしたが、ある時、卯女子、竜一、軍治の三人が何気なく墓地から降りて来ると、行きがけには閉つてゐた二階の障子が開いて、見ちがへる程青ざめた彼が上半身を窓から乗り出し、いきなり叫びかけた。ひどいぢあないか、自分だつてあんた方のお父さんには懇意にして貰つた間柄だ、一度位は挨拶の声をかけてもよいではないか、さう云ふ意味のことを手を振り唇を顫《ふる》はせて、嗄《しはが》れた鋭い声で喚き立てた。姉はさつと顔色を変へて、はあ、とだけ言ふと、軍治を引き立てるやうにして足早に歩き出したが、その時には彼の妻らしい人影が二階に動き、何か揉み合ふと見えて、ピシヤリと障子が閉り、声はなく慌立《あわたゞ》しい物音が起つたのだが、発作《ほつさ》でも起したらしかつた。
だが、それもこれも家屋敷が銀行に引渡される迄のことであつて、もう嫁いでゐて云はば身の固まつた姉達にはともかく、男の兄弟三人の生活と云ふものはそれ以来全く思ひ思ひの方向に絶ち切られてしまつた。次男の昌平は鉱山師だと云ふ新しい養父に連れられて、南の方のK市に行つた。長男の竜一には学資として多少の金が取除かれてあつたが、始の中は止めると云ひ張つてゐた学校の寄宿舎へ、宥《なだ》められて立ち去つた。彼には最早帰るべき家と云ふものがなく、先祖の位牌は彼が一家をなす迄といふ約束で幾の家に預ることになつた。
軍治は一人一人立ち去つて行く親戚の者や姉達から、幾は最早「母」であつて「小母さん」ではないことを煩《うるさ》い程言ひ聞かされた。余り執つこく言はれたので、軍治はかへつて不安になつた。幾の顔を見ると、その事が頭に浮び、変に言ひ難かつた。口に出しかけてもぐもぐしてゐると、幾はしかけてゐた仕事を止めて、軍治の方を向いたりした。それが「母」と呼ばれるのを待つてゐた様子なのかどうか、軍治には解り兼ねた。しかし、或る時、何気なく、戸外から走りこんで来たはずみに「母さん」と大声に言つてしまつた時、幾は軍治にもそれと見てとれるほど嬉しさうな顔をした。鈍い、霧の中からだんだん明瞭に近づいて来る人声のやうに、軍治の中で何か響き答へるものがあつた。
幾から子供用の新しい番傘を渡されたことがある。小学校へ通ふ子供は誰も自分の傘に遠目にも解る程大きな字で姓名を書いて置くのが習慣だつた。軍治の開いて見た傘には黒々と、中村軍治と云ふ字が真新しく浮いてゐた。今でも町の人は彼を呼ぶのに「鳥羽さん」と言つてゐた程であつたから、軍治にはこの新奇な不慣れな姓が恥しかつた。軍治は家の出口で、きまりが悪い、と言ひ言ひ、傘を開き目にしたり閉ぢたりした。すると、それまで笑顔で眺めてゐた幾が不意に恐い顔をし、どこがきまりが悪いの、と言つた。軍治は泣き顔をして傘を肩に被《かぶ》さるやうにし、道の端ばかりを見るやうにして歩き出したのだが、突然の幾の権幕の意味が解らず、無闇と辛かつた。
旅館とは云ひ乍ら昔風の大きな家を改造し、建増したものであつて、外見は普通の家と殆んど変りのない格子戸が廻してあり、内部へ入ると広い式台のある玄関から真直ぐに長い光る廊下が奥に伸びてゐた。その廊下は三棟の二階家をつないでゐるもので、戸外から覗い
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング