うがう》の変つた蒔の寝顔を眺め乍ら、これが肉親の祖母であつたらどんな気がするだらうと思つた。すると、突然、悲しさがこみ上げて来た。何か特別な愛情に捲きこまれた感じだつた。
 雪は降らなかつたが風が冷い夜更、誰か玄関で大声に呼び立てるのに眼覚めると、傍には幾も居らず、何事かと出て見ると、玄関の土間に見知らぬ男が蒔を抱きかゝへてゐた。大戸は開いてゐるので、風が吹きこみ、蒔の下半身から水が滴《したゝ》り、紫色に黝《くろず》んだ頬を固く痙攣《ひきつ》つたまゝ速く荒い呼吸をしてゐた。
 幾も軍治も寝こんだ隙に這ひ出て、戸外に迷ひ行き、家の前を流れてゐる下水溝に落ちこんだことが解り、幾は済まぬ、済まぬと何度となく口に出しては詫び乍ら、意識の不明瞭な蒔の身体を撫でさすり、夜通し起きてゐた。
 それから急性肺炎になり、三日目に蒔は死んでしまつた。軍治はその時二階の部屋にゐたのだが、幾も客室の挨拶に出て居り、居間には女中が一人附いてゐた。誰か早く来て下さい、と悚《おび》えたやうな声が響いて、軍治は矢庭に急な板梯子を中途からとび下り、居間の障子を引き開けると、蒔はもう歯のないよぢれた膜のやうな唇を間を置いて開き、又閉ぢしてゐるだけであつて、それも呼気《いき》の通る音が次第にうすれると、唇も弾力を失つたかのやうにぢつと静まつてしまつたが、同時に顔の皮膚一面に現はれて来た一種滑らかな、静止し、安定した表情以上の表情と云ふやうなもの、その柔く、又冷い、絶対に落ちつき切つた感じが、不思議に軍治を打ち、一種名状しがたい悔恨の情が彼の胸を疼《うづ》かせた。軍治は、居間の外で女中達の幾を呼び求める声、誰彼となく走り近づく足音を聞き乍ら、蒔の未だ温い手首を握り耳を押しあて、脈搏を探つたが、やがて、幾が走りこみ、その後から室一杯に、死者と幾と軍治の周囲にひつそりと輪を描いてゐる女中達や近所の人に気づくと、突然湧き起つた羞恥のために顔を上げることが出来ず、最早脈の消えた手首の上に何時までも顔を押しあてたまゝの格好でゐた。
 葬式も済み、急に風の落ちた後のやうな夜になり、居間で軍治は久し振りに会つた姉の卯女子と話し合つてゐた。仏壇の蝋燭をさし換へる度に、仏具が光り、姉の横顔が殊更白く浮いて見えたりした。三人の子の母親になつてゐる彼女は、昔のやうではなく、世慣れた様子で、線香の消え尽きたのにもよく気がついた。
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