女中達が嫌がるのを、見兼ねて幾が叱りつけ居間へ蒔を追ひやるやうにするのだつたが、又しても着物の裾を引きずり台所に出て来た。それも出来ないとなると、玄関傍の火鉢の前に坐りこんで、客毎に頭を下げ、場外れな挨拶をした。みつともないから、と云つて手をとり引き立てるやうにすると火鉢にしがみついて、自分の何処が悪いか、と頑《かたく》なに言ひ言ひ、皮膚に黒い斑点の浮いた褐色の筋張つた手をもがくやうにして幾の手を払ひ、揉み合ふこともあつた。それにしても、幾の愚痴を聴いてくれ、本気になつておろおろと涙さへ浮べてくれるのはやはり蒔なのであつて、血の通ひ合つてゐるのはこの母と自分だけなのだ、と沁々考へることがあり、さう云ふ時今更のやうに犇々《ひしひし》と孤独な不安に襲はれるのだつた。
冬になり、気遣つてゐた軍治はかへつて肥つた位だつたが蒔が寝ついてしまつた。心臓は確かだが、と医者は言つた。老衰だとは誰の眼にも明かだつた。
場所がないと云ふので自動車会社の人には他所《よそ》へ移つて貰ひ、居間が病室に宛てられた。床の間はついてゐたが、細長い建方なので、居間は障子を閉めると薄暗く、隅の炬燵で蒔は蒲団にくるまり、ぜいぜい息の音を立て、時々|蠢《うご》めいた。頭が呆けて、何を言つても解らず、又他人にも聞きとれない囈言《うはごと》を洩らし、突然手を伸して頭のまはりの空気を掻き集めるやうな格好をした。白髪の油に埃がつき、それが蒲団に覗いて乱れ、寝てゐるかと思へば、不意に啜り泣きのやうな迫つた呻《うめ》き声を立てたりした。
便の始末は幾が人手を借りずにしてゐたのだが、蒔はそれだけは解るのか、身をもがいて嫌がつた。一度、軍治は見るに見兼ねて手伝つたが、此方の腕からすり脱けようとして蒔のもがく力の強さは、抱きかゝへてゐて共倒れをしかけた程だつた。時々蒔は匍《は》ひ出ようとすることがあつた。何所へ行く気なのか解らないので、無理にも蒲団の中へ押し入れると、その時はぢつとしてゐるが、暫くすると又動き出すのだつた。誰も傍に居合せなかつた時、蒔は縁側から長廊下の中途まで這つて来てゐた。便が居間から廊下にかけて、かすり附いてゐた。
軍治は蒔の薄汚い立居には以前にも露骨に顔をしかめなどしてゐたのだが、病気になつて以来の蒔の様子には唯驚き眺める許りで不思議に汚いと云ふ感じが起きなかつた。傍にゐて、すつかり相好《さ
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