と眼覚めて来た。誰も事の次第を分けて言ひ聞かせて呉れる者はなかつたが、犇《ひし》めきざわめいた世事の縺《もつ》れは、唯その中に一個の小さい身体を置いてゐるだけで、軍治には厳し過ぎる刻印を打ちつけた。
 憎い奴だ、彼奴《あいつ》と彼奴は父の敵だ、と、さう姉や親戚の者達が円座を作つて、顔を歪め唇を捩《よぢ》り曲げて罵り合ふのを、軍治は何度となく眼にし、耳に聞いた。密告した男の顔と、今一人は父の同業者である肥満した男との顔が何時何処で見たと云ふこともないのに軍治の頭にも焼きつけられた。父と銀行との中間に立つて種々|斡旋《あつせん》の労をとつて呉れた父の親友へ宛てた遺書が発表されて、父がその同業者に対して最後迄憤り憎んでたことが明かになつたのであつた。
 父の費消金の中には信用貸でその男に用立てた部分があり、問題が起るとかうなるからは五十歩百歩なのだから父の負担として呉れ、その代り家族救済として後で支払ふ、と、その男が言ひ出し、父が拒絶すると言を左右にし始め、最後には最早支払済だとさへ白を切つた、と言ふ。遺書を読み上げたのは民子の舅《しうと》の土井であつたが、遺児達はそれをかこんで首を垂れ首をさしのばし、聴いてゐた。巻紙に書きなぐつた遺書の文字は聴く者の眼にも透して見え、読み辛いかして土井は度々咳をし乍ら、それでも声だけは激しく高く、父の悲憤の感情がありありと移り迫つて、皆は座に堪へない思をした。姉達や親戚の者は時に溜息を洩し、時に眼を見合はせてゐたが、未だ成人してゐない男の兄弟、とりわけて長男の竜一は深く顔を伏せてゐるだけであつた。
 又、父の死後一週間目に僅かな額の貸金の請求を葉書に朱筆で認《したゝ》めて寄越した男があつた。この男は父の生前十何年来と出入してゐて、台所口から頭を低く何度も父に泣きついて来た時分のことは長姉の民子もよく知つてゐる程であつた。自分の今日あるは一重に父のお蔭だ、と口癖のやうに言つてゐた男だつたが、父の蹉跌《さてつ》前後から遠のいてゐて、葬式の際に一度顔を出したきりであつた。不人情者、恩知らず――父に対する哀惜の情や、跡方もなく消えた一家の犇々《ひしひし》と身に迫る切なさから、皆は口を極めてこれらの人達を悪《あ》し様《ざま》に罵り、僅かに鬱憤を洩らすのであつた。
 父の墓は町端《まちはづ》れの小高い丘の上にあつて、丘の下の墓地へ上る路の向ひ側には
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