と笑はれたものであるが、やはり手は汚さないでも手入はしたやうな顔つきで、煙草を吸つては庭を眺めしてゐた。庭木の大部分は松根が生前好んで植ゑた木犀《もくせい》、山茶花《さざんくわ》、もつこく等の常緑樹であつた。それを特別に思ひ出すのは卯女子なのであつたが、父もそれを考へてゐたかどうか、そこまでは解らなかつた。
 上の男の児二人はとにかく小学校に通ふ年頃になつてゐたが、末の軍治は母親の晩年に産れた為か身体が弱く、又病気が病気であつたから母親の乳ものませないやうにしてゐたので、なほのこと皮膚から手足まで弱々しい感じがしてゐた。それもこの頃はめつきりいたづらになり頬にも紅い色が現はれて来た。着物を沢山着こんでゐれば、肥つて来たのかなと思はれ、鳥羽はいつも自分で風呂に入れてゐたのであるが、どうにか普通の子供らしい肉づきも実際に出来たやうである。その軍治が兄の歌をうろ覚えに声だけは高く唱ひながら、離れと母屋《おもや》とをつなぐ廊下を勢よく行つたり来たりして遊んでゐるのを、鳥羽は卯女子をかへり見て「あいつは母親を知らんのだからな」と言つたことがある。可憐児と呼ぶのが鳥羽の口癖であつた。卯女子はその度に父の中でも母のことが時々は深い思ひ出となつて出るのだらうと、考へがそこに落ちると自分も母がなつかしく、又さう言ふ父の心持が推《お》しはかられて自然と涙ぐむのである。しかし卯女子は幾に対してさう悪い感情を持つてはゐなかつた。母の病気見舞にやつて来た時の幾の様子は、今でも眼の前にあるのだつた。母が死んだ時、幾はその老母と二人で手伝に来たのであるが、主に口を利くのは蒔《まき》だけで幾は心持その後に控へてゐる風があり、手伝と云つても台所の方にばかりゐて、滅多に人の多勢集つてゐる座敷の方へは姿を出さなかつた。
 湯灌の時、手伝の人々が病気が病気だからと尻ごみしてゐる風があるのを見ると、蒔は自分から先に立つて
「こんな風におなんなすつて、可哀想に可哀想に」と一心に独り言を言ひながら、痩せ細つた死者を抱き上げた。親戚の中には傍に立つたまゝ、それを見て「出過ぎたことをする」といふ顔をした者もあつたが、蒔はそれも眼には入らないもののやうに、残りなく拭き潔めたのであつた。実際卯女子にしても、自分の手に触れるこの死体が吾が母であるのかと思へば、ただただ涙が出るばかりであつて、結局は手をつかねて涙を押へるの
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