石ころ路
田畑修一郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吹き捲《まく》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)終日|呆然《ぼうぜん》として
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島へ着いた翌日から強い風が出て、後三日にわたって吹いて吹き捲《まく》った。雨も時々まじったが、何より風の強さに驚いた。島の人に訊《き》くと、こんな風ならしょっちゅうだと言う。もっとひどいときのはどんなだろうと思った。
僕の着いた日は、海にうねりこそあったが、穏かなうす曇りで、船から望んだときの三宅島はその火山島らしい円錐形《えんすいけい》の半ばの高さから下方は淡緑色に蔽《おお》われて、陸へ上るとすぐ、そこは黒砂のあまり大きくない浜で、そこから三十メートルぐらいの断崖《だんがい》についている急な坂路を上って、ゆるやかな傾斜地を走っているやや広い路に出たとき、あたりの土手にたくさんある灌木《かんぼく》はもう若々しい広い葉っぱを出しているし、路の両わきの木々も、それからところどころの樹の間から眺望《ちょうぼう》されるなだらかな山裾、それはしだいに盛り上って向うに島の中心をなす雄山《おやま》の柔かいふくらみが眼を惹《ひ》きつける、そこら一帯の榛《はん》の木の疎林《そりん》、あたりの畑地にもいっせいに新芽をふきだしているのを見て、僕はいきなり春の真中へとびこんだような気がしたものだ。
それが三日間の強い北西の風でまた冬に逆もどりした形だった。僕の来た分の次の汽船は島へ近寄れなくって、大島の波浮《はぶ》港まで避難したという。着くなり風に閉じこめられた工合で、僕は終日|呆然《ぼうぜん》として庭の向うの楠《くすのき》の大木が今にもちぎれそうに枝葉をふきなびかされるのを、雨を含んだ低い雲がすぐ頭の上と思えるくらいのところを速くひっきりなしに飛んでゆくのを眺め、小やみなく遠くの方で起って、きゅうにどっと襲って、また遠くの方で唸《うな》っている風の音を聞いてすごした。
ようやく風のしずまった日の午後、散歩に出た。部落のどの家も周囲に石垣をめぐらしている。島では「ならいの風」という。それは北西から吹くやつだが、そいつが来るといつも荒れで、部落はおそらくならいの風を避けるためにか、傾斜と傾斜の間のいくらか谷まった地勢にかたまっているので、家々の高低がまちまちで、路は家々の古い石垣の間をあるところは小さい谷のようになって、方々に上ったり下ったりして続いている。いい加減に低い方へ下りてゆくと、部落外れの両側に椿の樹が並木みたいにぎっしりと密生した路になった。そこを抜けるとからっとした広い傾斜面でどこも秣畑《まぐさばた》になっている。切株から青い葉茎が少し出ている。ずっと海の方まで傾斜面はつづいて、そこでいきなり切れている風に見えるが、きっと高い断崖になっているのだろう。秣畑を区切ったみたいにしての茅《かや》のような雑草がところどころにある。まだ冬枯れのままの延び放題な、そして風に捻《ひね》られ揉《も》みたてられたまま茫々として、いかにも荒れた感じだ。そのあたりでは風がまだ相当強い。時々後から追いたてるように、冷たくさっとやってくる。そして火山灰でできた秣畑の荒い小砂を足のあたりに吹きつける。身体の奥の方で何かが目覚めてくる。路はもう消えてしまったが、何とかして崖っ縁まで行ってみようと思って、そこではもうだいぶ深くなっている茅の茂みに踏みこむと、隠れた凹地に足をとられて、僕は何度か転《ころ》び、手足の方々を擦《す》りむいた。風の冷たいのと、茂みの深いのとで、崖縁まで行くのはとうとう断念した。
引き返しにかかると、まともに面《おもて》を打つ風のきついのにびっくりした。でたらめに部落へ向けて秣畑の中を歩く。時々顔を上げてあたりを見ているうち、白い波頭のちらちらしている海のずっと向うに、山の上半分うすく雪を被《かぶ》っている島が眼に入った。それは大島だった。何だかひどく遠い。そして暗灰色の曇り空の中にちょっぴりした鮮かな雪の色は思いがけなく僕の心に錐《きり》のような痛みを感じさせた。ここからいうと、大島もその向うにあっていちような灰色の中にかくれてはいるが、東京のあるあたりは北方だ。あすこには今どんなことが起っているのだろう。あすこには僕の置き去りにしてきた生活がある。いろんなことが一時に胸の中に押し寄せてくる。だが、僕はここに来ている。ここにいる僕は向うに起ることとはいっしょになって生きてはいない、ここは何かしら別物だ。
ちょうど部落の入口に来たとき、そこから路はやや急な坂になっているのだが、上手《かみて》から一人の着物の前をはだけてひき擦《ず》るように着た痩せた男が路いっぱいにふらりふらりと大股に左右に揺れて降りてくるのを見た。咄嗟《とっさ》に気狂いではな
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