いかという気がしたので、小わきによけて擦れちがおうとすると、その男はなんだか僕の行く方へ寄ってくる。そのまま二三尺の距離で二人とも立ちどまった。そのとき僕は始めて相手の顔を見た。痩せて尖《とが》った顔で、執拗《しつよう》に僕を小高いところから見下している眼つきには、風狂者によくある嶮《けわ》しさのうちに一脈滑稽じみたところがある。僕が相手の気心をはかりかねて立っていると、その男は立ちはだかったままやはり左右にゆるく揺れていたが、僕を文字どおり上から下までいくらか仕科《しぐさ》めいた様子で眺めて、
「君は誰だ」と、訊いた。
 僕は間《ま》の悪い微笑をした。だが、ある気まぐれが起ったので、
「君は誰だ」と、僕もおうむ返しに訊いた。相手はまたぐらりと揺れて、重ねて、
「君は誰だ」と繰りかえした。
「君が言わなきゃ、僕も言わないよ」
 僕はそう言いながら、自分が冗談でやっているのか、本気なのかわからない気持になった。
「いや、わるかった」と言って、頭をちょっと下げたかと思うと、すぐ、
「誰だ」と訊く。
「誰でもいい」
「何しに来た」
「遊びに来た」
「遊びに?――島へ遊びになんか来られちゃ困る」
 僕は思わず彼の顔をまじまじと見た。なるほどそうかもしれない。僕はいい加減に「遊びに来た」と答えたが、その男に叱られたように僕の心持なんかただの遊びにすぎないのかもしれぬ。
「いや、君は今度来た水産技師だろう」と、その男はきゅうに叫んだ。
「そうだろう。水産技師だろう」と、いきなり僕の手をつかんで、
「君、たのむ。島のためによろしくたのむ」
 と、もうすっかりそれにきめて、人なつこい微笑をうかべた。彼は明らかに酔っていた。
「うん、うん」
「そうか、たのむ。今夜遊びに来たまえ。すぐそこの家だからな」
 その男はきゅうにはなれて、ぴょこんとお辞儀をして、ふらつきながらすぐ下手《しもて》の汚い農家の庭へ入って行った。
 島の人で最初に僕に強い印象を与えたのはその酔払いであった。またほかに、「リュウさん」という人、「タイメイ」という人などに会った。僕は、島の人で学校時代に僕より二三年先輩で、一二回会ったくらいで顔もうろ覚えになっている檜垣《ひがき》をたよってきたんだが、そして着くなりそのまま檜垣の家に厄介《やっかい》になっていたが、檜垣の家は伊豆七島|屈指《くっし》の海産物問屋で、父親がその方をやっていた。檜垣自身は専売局出張所の役人をやっていた。家のすぐ裏手に出張所の建物があって、檜垣はそこでいつも島の青年たちを集めて喋《しゃべ》ったりお茶をのんだりしていた。檜垣はむろんその中心なのだ。いろんな人がやってくる。近くのバタ製造所の技手、印半纒《しるしばんてん》を着た男、コール天のズボンをはいた男、などが通りがかりにひょっこり入ってきて、三十分も一時間も坐りこんで話してゆく。
「リュウさん」はその仲間の一人だが、しかし青年とは言えない。彼の息子二人のうち兄の方は無線電信の技手をやめて帰った男で、弟の方はこれも銀座の不二屋のボオイを七年もやっていたくらいで、息子二人も出張所へ来る仲間だが、父親の「リュウさん」もやはり仲間なのである。彼と息子たちとはほとんど似ていない。檜垣の話では、「リュウさんはあれで黒竜会の壮士だったんだ」という。しかしちっともそれらしくなくて、小柄で真黒で痩せて、ちょっと東京の裏店《うらだな》に住んでいる落ちぶれた骨董屋《こっとうや》というところだ。何かといえばうなずく癖がある。入ってくるとからそれをやる。「ウン、ウン、ウン」と聞えないくらいに言って、独特の微笑をして(そんなとき一皮の切れの長い眼がクシャクシャに小さくなる)その場にいる誰にもうなずいてみせる。自分が話す段になるともっと頻繁《ひんぱん》にやる。話に興がのると、あまりひどくうなずくので、彼の腰かけている椅子ががたついて、動くことがある。彼の腰かけている椅子ががたついて、滑り落ちそうになると、慌《あわ》てて居ずまいをなおして、椅子に深く腰をかけるが、すぐまたうなずきはじめる。それに咽喉がわるいのか、奇妙な咳《せき》をする。ちょうど鶏がトキをつくる際のけたたましさに似た、思いがけない疳高《かんだか》い声でやるのだ。どこにいても、それこそずいぶん遠くにいても、その咳で、「リュウさん」とわかるのだという。ちょうどその話をしていたとき、出張所の横手の路の先から咳が聞えて、「そら」と言っていると案の定「リュウさん」で、大笑いしたことがある。また、彼の話しっぷりそのものが、咳やうなずき工合と同じに突拍子もなくて、黒竜会の壮士だったというのも、いくらかそういうこともあったのだろうが、彼の話しぶりにも由来《ゆらい》しているのだろう。「リュウさん」と皆が言うので、僕は「竜さん」だと思いこん
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