前面は広い耕地《こうち》だ。耕地全体をとりまくようにして、家の裏から左手へ、それからずっと前方までゆるやかな傾斜面が盛り上っているが、そこらじゅうの榛《はん》の木の若葉は何という美しい奴だろう。日に輝き、揺れ、絶えず小さいさやぐ音をたてている。それは何かしら僕の心を吸いこんでしまうやつだ。それに白と黒の斑牛《まだらうし》、こいつはどうしていつまでもこう動かずにいるんだろう。その鮮《あざや》かな背はどんなに遠くにいても、どんなに林の中からちょっぴり見えただけでも眼につかないということはない。いつまでもいつまでもじっとして草を喰っている。
 あたりには散歩するところがたくさんあった。同じ島の中でも、神着とこことでは何というちがいだろう。明い。そして何もない。家の左手の傾斜地を左へ上って行くと、高台のようになった広い平地があるが、そして大部分は耕地で、ところどころには鍬を入れている人影が見えるが、それは何だかあたりの雰囲気にのみこまれて、働いているというより、ただそこにいる人という感じで、ゆっくりと動いている。耕地もそうで、それはつい昨日耕地というものになったような、素人くさい様子をしている。林もそうだ。それはちょろちょろと細かったり、ただ伸びられるだけ伸びるとでもいうように、むやみと真すぐに立っていたりしているが、それでいて生き生きしている。
 家の右手の林を抜けるとすぐ海ぎわで、崖縁の小路をつたってゆくと一面にまだ黄ばんだままの草地で蔽《おお》われた広い突鼻《とっぱな》がある。ひる間、僕は何度もそこへ寝っころがりに行った。草地は厚くて日に温《ぬく》もっていて、いつのまにか身体じゅうがぼうとなってくる。海からの風がたえ間なく顔の上を吹いて通る。耳のすぐ傍で虫の羽音がする。海の上には何もない。むやみと広いばかりでいつまでたってもそこには何も起きない。僕は自分をどっかへ置き忘れてしまったような気になる。何かあったのだ、何か起ったのだ。僕は思いだそうとしてみる。だが、ちっとも僕のところへはやってこようとしない。僕には遠い不快な記憶のようなものがあり、それと今の僕との間にはある断絶がある。ふいに鋭い皮肉な心持が湧き上る。あれはあれで、これはこれだ。どれもたしかなものはない。どこにもたしかなものはない。あったらお目にかかろう。僕は何にでも身を任かせる気になる。そして鈍い気倦《けだ
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