を鍬や鶴嘴で崩し、これを水で流しながら採取するので、この方法は今でもやつてゐるが、これがいかに古来から盛んに行はれたかは、堀尾氏の治下に「鉄穴ながし」による砂の流出が甚しく、宍道湖へ流入して年々埋まり要害の障りになるといふ理由で停止を命じたことがあるのを見ても判るし、のちに、松平氏の治下にあつても、斐伊川の水路を閉塞するので、仁多郡山中の鉄穴二百余ヶ所に及んでゐたのを六十ヶ所に減じたといふのを見ても、よほど大仕掛なものだつたことが想像される。
 以上は砂鉄採取に関することであるが、その製鉄法たる「蹈鞴」といふのは、古くは「野だたら」といつて一定の地に固定せずに舟形の炉を設けて製鉄したので、今でも布部の山地にはその跡が散在し、鉄滓が出るさうである。現在布部で行はれてゐるやうな固定炉はいつ頃からはじまつたものか明かでないが、玉鋼製鋼会社以前にこの地の「たゝら」を経営してゐた家島家はざつと二百年といふから、少くともそれ以前からであることは確かであらう。
 私は布部へ行く前に、そこの「たゝら」が炉も建物も古式そのまゝだといふことを聞いてゐたから、少からず興味を持つて出かけたが、行つてみると、建
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