な骨折りではなからうと想像される。もともと必要あつてさうした結果であることは明かであるが、よく見ると大小があり、木の薄い厚いがあつて、多少盆栽趣味も加つてゐるらしく見うけられる。この防風林に金をかけ過ぎて身代をつぶしたといふ笑話があるほどだ。もつとも、一代や二代では美事なものができるわけはないから、これが家の自慢になつてゐることもまんざらうそではなささうである。私が通つたときにも、ちやうど手入れを終つたばかりらしく、刈りこんだ松の枝々の間から、家と土蔵の白壁が透いて見えたりして、なかなか風情のある家が目についた。こんなところに入念な手入れをするのも、風土色のしからしむるところとはいへ、やはり出雲人の気質を現してゐるのだらうか。
しかし、この刈りこまれた防風林は簸川平野だけにかぎられるので、広瀬から中海にかけての平野にはそんなものはない。広瀬は山陰の鎌倉といはれるくらゐで、今は昔日の俤はないが、しかし何となく落ちつきのあるきれいな小さい町だ。これが中海辺にかけて、簸川平野とは又ちがつた明い、穏かな野をひろげる。この野がしだいに山から遠のいて、中海の水辺と結ぶ線に沿つて、荒島、赤江、安来の町々が在る。そして、この附近の風光を見てゐると、安来節のあのゆつくりとした、水と田舎とのまざり合つた調子が、やはり何となく感じられるのだ、
安来節も、東京あたりで耳にするのは一種浅草調ともいふべきものになつて、たゞきんきんするだけであるが、ほんたうはずつとおほらかで、のんびりした、ゆつくりした調子のものである。レコードや寄席で聞いたりするのと、その生れた土地で聞くのとでは、まるで違つたものだといふ感じさへする。
先きに布部の鉄のことを述べたが、安来節はこの出雲の鉄と深い関係があるといはれてゐる。大体仁多、能義両郡山中の鉄は、一方は宍道を経、一方は飯梨川沿ひに運ばれ、安来港に集まつて、こゝから海路大阪へ荷出しされたものである。安来は、古くからその中心地だつだのだ。
私は、国が隣合つてゐたから幼さい時から安来節はよく耳にしたし、後年東京に出て有名になつた渡辺糸なども私の生れた町へ度々やつて来たものだつたが、安来節がどんなにして生れたものかは、もとより知るところはなかつた。しかし、太田直行氏の「出雲新風士記」行事の巻を見ると、地元の出雲でも余り知られてゐなかつたらしい。
それによる
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