を鍬や鶴嘴で崩し、これを水で流しながら採取するので、この方法は今でもやつてゐるが、これがいかに古来から盛んに行はれたかは、堀尾氏の治下に「鉄穴ながし」による砂の流出が甚しく、宍道湖へ流入して年々埋まり要害の障りになるといふ理由で停止を命じたことがあるのを見ても判るし、のちに、松平氏の治下にあつても、斐伊川の水路を閉塞するので、仁多郡山中の鉄穴二百余ヶ所に及んでゐたのを六十ヶ所に減じたといふのを見ても、よほど大仕掛なものだつたことが想像される。
 以上は砂鉄採取に関することであるが、その製鉄法たる「蹈鞴」といふのは、古くは「野だたら」といつて一定の地に固定せずに舟形の炉を設けて製鉄したので、今でも布部の山地にはその跡が散在し、鉄滓が出るさうである。現在布部で行はれてゐるやうな固定炉はいつ頃からはじまつたものか明かでないが、玉鋼製鋼会社以前にこの地の「たゝら」を経営してゐた家島家はざつと二百年といふから、少くともそれ以前からであることは確かであらう。
 私は布部へ行く前に、そこの「たゝら」が炉も建物も古式そのまゝだといふことを聞いてゐたから、少からず興味を持つて出かけたが、行つてみると、建物はすでにその夏とりこはしたばかりで、目下改築中だつたからもはや見るべくもなかつた。もつとも、工場主任の細井氏の話によると、改築はかなり問題になつたさうであるが、何分にも時局の要求で増産を緊急としてゐるから、それには手狭でもあり不便でもあるので止むを得ずとりこはした、といふことだつた。記念に残された写真で見ると、全体にこけら葺きの厖大な屋根をそつくり地面に立てたやうな建物で、何となく古代の天地根元造りを思はせるやうな異色のあるものだつた。これは私の素人考へであるが、時局の要請で止むを得ないとすれば、これだけを記念物として残し、別の地点に工場を建てゝもよかつたのではなからうかといふ気がした。むろん、その附近は谷合ひの狭い地所だから、他に適当な場所といつてもなかつたかもしれないのではあるが――。
 その、大きな屋根を地面からすぐにおつ立てたやうな建物には、窓らしいものは全然なかつた。僅かに屋根の大棟に煙抜きらしいものがあるだけである。当時、中で仕事をしてゐるとうす暗いのを通り越して殆どまつ暗らだつたぐらゐだといふ。細井氏は技師として近代工学の素養もあるわけだが、この原始的な「たゝら」の建物
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