、次には聞えにくいほど鳴り、そして急に勢よくつゞけさまに鳴り出した。ちやうど、それは焔の燃える様子と緩急を合せたやうに、まざまざと目に見せるやうに響いた。
この町に一体火事なんて、いつあつたらう。たしか、三年前に一度、そして去年の春さきに小火《ぼや》が一度、それも藁火が離納屋に燃え移つただけのことで、それだのに殆ど町中がいや近在からも山を越して人が集り、提灯《ちやうちん》が集り、大変な騒ぎだつた。めつたにないどころではない、他のことは忘れても、この殆ど珍重すべき火事は、そのあつた年も、場所も火元の蒼白な顔も、ありありと覚えこんでしまはれるのだつた。
二階の部屋だつたので、障子を開けてみたが、空はどこも真暗らで所々にうすく星が光つてゐた。その静かな黒い拡がりがかへつて不気味だつた。すぐ下の通りではどの家も表の戸を開け放つたまゝ道路に出てゐたので、屋内からの明りが方々から路面に流れ、立つて空を見上げてゐる人達の半身を照してゐた。黒い人頭がざわざわと右に行き左に行きしてゐた。所々の家の切れたあたりは驚くほど暗かつた。鐘はまだ鳴つてゐた。それは今、さうはげしくはなかつた。だが、冴えてはつきりと、一所だけで鳴つてゐた。多分、左手のずつと先きあたりらしかつた。
どこかで、「営林署だ」といふ声が聞えた。そして、黒い人影は左手へ向けてぞろぞろと走つて行つた。何か叫び声のやうなものがその方で起つてゐた。
五
房一は下駄をつゝかけて外にとび出してゐた。何気なく腕時計をすかして見た。七時半だつた。まだそんな時間か、とびつくりして考へたのをおぼえてゐる。すぐ傍を、人が駆け抜けてゐた。房一も走り出した。どういふものか、さつきうす暗がりで見たぼんやりした小さい白い時計の文字盤が頭の中で見えてゐた。走り出した方は真暗らな畑中の路だつた。今、房一の右にも左にも誰とも判らない人が一杯で、腕や肩がぶつかつた。小谷も練吉もいつしよに駆け出して来た筈だつたが、どこにゐるか判らなかつた。
恐しく暗い。目の前に小河の水面がぼんやり光つて流れてゐた。橋を渡ると、そこは営林区署出張所の材木置場で、その向ふに稍小高い山を背負つて出張所の建物が立つてゐた。そこだけに、高張提灯がいくつか並び、傍で小さい焚火が燃え、疎《まば》らな人影が立つて照し出されてゐた。他には火らしいものはどこにも見えない。鐘はいつのまにか止んでゐた。どつちを向いてもたゞ大きな暗さが黙り返つて立つてゐるだけだつた。しかるに、房一の入りこんだ材木置場から橋にかけたあたりにはとまどひした無数の人が誰とも判らないまゝにつめかけ、空を見上げ、がやがや云ひ、押し合ひ、駆けまはりしてゐた。彼等は夢中になつて走つて来たのと、暗らがりとどこに火事があるのだか判らないためとで一様にあてどのない興奮にまきこまれ、どうしていゝかもわからず、たゞ無暗とつめかけ、そこらぢうでバケツの音がし、躓《つまづ》いたり転んだりしてゐた。製材された板片の井桁《ゐげた》に積み上げられたものが、人に押されてばりばりとくづれ落ちる音がした。
「どこだ、どこだ。もう消えたのか」
「ほんとうに火事があつたのかい」
「さあ、知らん」
「なんだ、さつぱり判らんぞう」
「いや、鳴つた。出張所の鐘がたしかに鳴つてゐた」
「おーい、火事はどこい行つたあ」こんな風に、口々に喚いてゐた。
が、材木置場の混乱にもかゝはらず、そこから一段と小高くなつてゐる出張所の構内では、やはり高張提灯がかゝげられ、焚火が燃え、人が立つて歩いてゐたが、をかしい位にひつそりし、柵のところにかたまつた人影は下方の混乱を黙つて見物してゐるとしか見えなかつた。
房一も人に揉まれて立つてゐたが、構内の落ちつきを見ると、近よつて事情を確かめようとした。すると、その時、彼よりも先きに誰かがやはりさうしようと思つたらしく、構内へ上る土手に足をかけようとしたはずみに、そこは溝だつたと見え、たちまち安定を失つて水の中に落ちた。男はすぐに土手に匍ひ上つたものの、下半身づぶ濡れになつたらしく、しきりと裾をしぼつてゐるやうだつたが、又滑つて尻餅をつき、土手にへばりついたのが、ちやうどその上方に立つた高張りの明りでぼんやりと、だが、蛙か何かがばたついてゐるやうに見えた。その時、高張りの下で木柵に凭《もた》れて様子を眺めてゐた長身らしい人影が、突然大きな笑ひ声を立てた。すると、火事騒ぎで興奮してゐたらしい下の男は、土手の途中に立ち上ると、
「なにを笑ふか」
と、激しくいきり立つた。
木柵の男は、稍ひるんだ風に一寸黙つてゐたが、そんな風に怒鳴られることに慣れてもゐず、又予期してゐなかつたらしく、押し返すやうに低いバスの音で云ひ返した。それはどこか、命令することに慣れた、威圧するやうな響きを含んでゐた。
「をかしいから笑つたのだ」
「なに?」
と、下の男は睨み上げた。
「をかしいからとは何ごとだ。火事だといふから手伝ひに来たんぢやないか、そして溝に落ちたのが何がをかしいんだ」
相手はしばらく黙つてゐた。だが、場所が高いのと、柵の中にゐるためか、落ちついて答へた。
「こゝの消防演習をやつたのだ。そんなに騒ぐことはない」
「なに、消防演習?」
と、下の男は形をなほした。
この押問答がはじまつて以来、ちやうどそれが高張りの下の明さのためもあつて、あたりの注意はそこに集り、急に静まり、ために、そこが宛かも上と下との代表点といつた際立ちを現してゐた。男のうしろにはたくさんの人がつめかけてゐた。
あたりには急に殺気立つた空気が感じられた。恐らく、暗やみで途惑《とまど》ひし、右往左往したやり場のない興奮がはけ口を見出しかけたからだらう。男は、はじめの滑稽な様子にひきかへ、今案外な落ちつきと鋭い怒気を見せてゐた。多分、たゞならぬ空気を察したのだらう、構内ではいつのまにか焚火が消され、高張提灯も取り去られて、柵をへだてて二人の男が対峙してゐる所にだけ一つ残つてゐたが、下方ではしだいに持込んで来た提灯のためにかへつて前とは逆に明さが行きわたり、土手に肩をいからして立つてゐる男を下から照し出してゐた。
「あ、神原の喜作さんだ」
と、突然房一の肩を押へて云つた者がある。いつのまにか、練吉が傍に来てゐたのだ。彼は酒の酔ひもさめたと見えて、興奮し、そのために稍|強《き》つい、輪郭のはつきりした顔立ちになつて、一心に土手の方を注視してゐた。
土手に立つてゐる男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家してゐる鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしてゐてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――
だが、その間にも土手の押問答はつゞけられた。
「消防演習だ? ふむ、よからう。そんなら訊くが、かうしてみんな集つて騒いでゐるのは何のためだか知つてるか」
相手は何か答へたらしかつたが、房一のところへは聞きとれなかつた。今まで静まりかへつて事の成行を見まもつてゐた人だかりが急にどよめいたからである。そして、柵の向ふでは、相手になつてゐる男のうしろに出張所側の連中がかたまつてゐた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけてゐた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。
「おい、やつは所長だぜ。まだ新任で、来たばかりなんだ。――行かう!」
何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がゐた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫してゐた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
が、練吉が駆け登つたのを見ると、先方の男は急に威丈高になつて怒鳴つた。
「何しに来た!」
「何しに来た?」
と、いきなり突きを喰はされた練吉は、神経的にさつと青ざめながら、反問した。
喜作はふりかへつた。そこへ房一も登りついた。三人は瞬間顔を見合せた。そこに、房一は自分よりは二つ三つ若い、だが禅坊主のやうな頭骨をした精悍な表情の神原喜作を見た。
相手が急に三人にふえたためか、柵の中の長身な男は一層興奮した。
「君達は一体何者だ!」
喜作は、
「何者かつて云ふが、そもそもこゝで半鐘をたたいたから集つて来たんだぜ」
と、案外冷静に云つた。
「いや」
と、房一が進み出た。
「私共は、これも(練吉を指して)この町の医者です。実は火事だといふから駆けつけたので。聞けば、演習だといふことですが、それなら前もつて町役場なり駐在所なりへ通知があるべき筈だと思ひますが、それはなさつたでせうな」
房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。
「それは、小規模な演習だからして居らん」
「ふむ、さうすると――」
さう云ひかけた時だつた。さつきから口々に何か叫び、又しづまりかへつてゐた下方で突然又あの板切れの井桁積みがくづれる音がした。その異様な、ばりばりといふ音は何か鋭い速い広い浪のやうな不安をひろげた。それは偶然の不吉な暗示を与へたやうなものだつた。誰かが、ずつと先きの方で溝をとび越え、木柵にとりついた。すると、又何人かが土手を駆け登つた。めりめりと木柵を引倒す音が立つた。と思ふと、房一は突嗟《とつさ》に身をひるがへして土手づたひにその方へ走つてゐた。彼は一二度傾斜で滑り、殆ど転んだかと見えたが、間もなく身体を起した時にはもうその場所に立ちはだかつてゐた。
「何をするかつ」
すさまじい怒気のやうなものが、房一のあらゆる部分に燃え立ち、彼のいかついむくれ上つた肩は二倍も大きくなつて見えた。それに圧倒されたものか、物音は止んで、房一が何かしきりと云つてゐるのが聞えたが、間もなく二三人がごそごそ土手を降りて行つた。
それで一たんは静まつたやうではあつたが、その中にはかへつて不気味な気配《けはい》が潜《ひそ》まつてゐた。黒くかたまつた人達はその場を去らうとはしなかつた。房一が向ふへ行つてゐる間に、構内の人影はすつかりゐなくなつてしまひ、黒い建物の奥にちらついてゐた官舎の明りも見えなくなり、焚火も消されたが、それはしばらくするとちよろちよろと又燃え立ち、人気のなくなつた構内の庭を少しばかり明くしてゐた。が、下方では殺気立つた空気が暗らがりの中に暗く、圧するやうに籠つてゐた。あちらこちらに人はかたまり、がやがや云ひ、或る塊りは黙りこみ、その間を何人かが動き廻つてゐた。ふいに、投石したのかそれとも何か中の人が躓いたのか、建物の方でチヤリンといふ硝子《ガラス》のこはれる音が立つた。一所では焚火がはじまつてゐた。それは猛烈な勢ひで高く燃え上り、かこんだ人達の顔を赤鬼のやうに照し出した。が、すぐに制止され、小さくなつたが、又しばらくすると以前にまして燃え立つた。方々に大きい焚火、小さい焚火がはじまり、そのまはりに集つた人達はもうどうしても動く気配はなかつた。
その間に、房一は駆けつけて来た駐在所の加藤巡査としやがみこんで、しきりと善後策を講じてゐた。傍には練吉も、神原喜作も、小谷も、それから徳次の顔まで見えた。徳次はきよろりとした眼を一層大きくし、加藤巡査と房一とが話す様子を熱心に見まもり、時々うなづき、口をもごもごさせて、何か云ひたげにしてゐた。加藤巡査はさつきから人々の塊りの間を説得して廻つてゐたが、無駄であつた。今や驚くほどの寒さが感じられたにかゝはらず、加藤巡査の顔は疲労し、汗を浮かべ、しきりに手真似を入れて話してゐた。明かに出張所側の手落ちだつた。が出張所の側では門を固く鎖ざし、どこかへ引きこんでしまつてゐるので、話のつけやうがなかつた。
「高間さん、ひとつ何とかして引上げさせて下さい。このまゝでは――」
と、加藤巡査は
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