無意識に汗の滲み出た額のあたりを指でこすりながら、心配さうに大小の焚火を見やつた。彼の声はしはがれてゐた。
「ですが、何とも手のつけやうがない」
 房一の顔は重々しい沈思の表情と太い興奮の色とで紅黒く、やはり膏汗が漲つてゐた。
「さうですが、それはさうにちがひないが――」
 と、加藤巡査はくり返した。
「このまゝでは責任者を出さなくてはならなくなる。手落ちは向ふにあるとしてもですよ」
「ふむ」
「それに――」
 と、加藤巡査は声を落した。彼は、さきほど事が容易でないと思つたから、とり敢《あ》へず本署に電話をかけた、署長はじめ自動車で来ると云つてゐたから、まごまごしてゐるうちには着くだらう、さうなるとこのまゝでは納《をさま》りがつかなくなる、怪我人を出さぬうちに事が静まるのは自分の望むところであるし、皆さんの方もいゝではないか――。
「よし!」
 と、房一はぐいと身体を起した。それがあまり突然だつたので、傍にゐた徳次は慌てて立ち上つた。
 それまで房一は、加藤巡査を通じて出張所と話をつけ、何らかの形で収拾させたいと考へてゐたのである。が、彼の素速い判断力は今はその余裕もないことを見抜いた。
「それでは」
 と、房一は加藤巡査に云つた。御苦労だが、加藤巡査には角屋のところで本署の自動車を一先づとめてもらひたい。こつちは自分が引受けるから、こゝへ乗りつけないやうに何とか待たせていたゞきたい、その間にこちらの始末をつけ、自分が責任者になつて出向いてよく話をするから――。
「ぜひ、さういふことに」
 と、房一は急いで頼んだ。加藤巡査は一瞬、不安な面持をした。が、房一の態度が決然としてゐたのと、急策としてはそれより他にないことも明かだつたから、直ちに承諾を与へた。

 三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けてゐる最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目《はめ》にもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。
 だが、あれだけの人数を僅か三四十分の間にどうして引上げさせたものだらう。本署から自動車で署長以下がやつて来るといふ噂も効果があつたにちがひないが、房一はじめ、神原喜作も練吉も小谷まで、それから後から馳けつけて来た四五人の主だつた連中も声をからして説得してまはつたので、又、半鐘が鳴つてからもう三時間近くもたつてゐたので恐しく冷えこんで来た夜気は焚火にあたつてゐる側だけが熱いばかりで、背中がぞくぞくするほどだつたから、容易に引上げなかつた人達もさすがに疲労し、興奮がさめ、三々五々散らばつて行つたのである。
 神原喜作は、殊に自分が最初に口火を切つた責任者だといふ自覚があるらしく、あのづぶ濡れになつた下半身がいつのまにか生乾きになり、寒さのために硬はゞつた裾をばくばくさせ、方々を歩きまはつて説いた。練吉はその間、一種異様な緊張さを現してゐた。彼は、ごくたまに目瞬きをしてゐたが、顔はかつて見せたこともないやうな生真面目さで蔽はれ、時々さつと青ざめ、焚火の前に来ると俄かに紅らみ、絶えず房一の傍から離れなかつた。
「ね、君」
 と、彼は思ひ出したやうに房一の顔をのぞきこんだ。それは、いつか道平を診察しての帰り路で、「あれだね、君は見かけによらない親思ひなんだね!」と叫んだ時とそつくりな感嘆をまじへた親しさといつた色が閃いてゐた。
 練吉はそこで房一について廻つたばかりでなく、角屋までもくつついて来た。そして、同じやうについて来かけた徳次を見ると、
「いゝよ、君。帰りたまへ、その方がいゝんだから」
 と、云ひながら徳次の肩をつかんで押しもどした。誰もが疲労のための一種|煤《すゝ》けじみた鎮静を現してゐたにもかゝはらず、練吉だけは明かにまだ興奮してゐた。と云つて悪ければ、恐しく深い印象を与へられたものの如くであつた。そして、一応の取調べを受けに、二人の責任者が参考人として自動車に乗せられ、本署のある町まで同行を求められたときに、練吉は自分も乗う込まうとして加藤巡査にひきとめられた。
 自動車が動き出した時、練吉は唇のはしをびりびりさせ、あの切れ目の顔に何かしら水をかけられたやうな表情になりながら、
「あゝ、さうか。あゝ、さうか」
 と、呟き、房一に向つてしきりとうなづいてゐた。

 房一はその晩留置されることを覚悟してゐたが、幸ひに取調べは簡単に済んで、夜ふけになつて神原喜作と共に自動車で帰つて来た。この二人が本署まで同行させられたことはあらゆる方面に同情をひき起した。そして翌日になると、出張所の側でも遺憾の意を表し事件は落着した。

     六

 それからしばらくの間、房一は来る人ごとに、会ふ人ごとに、見舞の言葉を云はれた。彼等は房一の紅黒い顔をまじまじと眺め、そこにその晩の出来事のかけらでも見つけられでもするかのやうに、又何かしら話をひき出さうとし、同情し、感嘆した。そして、きまつたやうにつけ加へた。
「何にしても、えらいこつてしたなあ」
 かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つてゐた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしてゐた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想してゐたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れてゐた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つてゐたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いてゐる観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
 その二つとも何か危険さを伴つてゐただけに、妊婦である盛子への影響を恐れたのだらうか。それもたしかに、あることはあつた。盛子は、鬼倉との時もさうだつたが、消防事件の時も、後で聞いて並々でない神経性な不安を現した。
「どういふことでせうね、まあ!」
 盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いてゐた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいてゐた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じてゐた。
 だが、まつすぐに話を進めよう――彼がその話を嫌がつたのは、人によつては精神の分裂を招き易い、あの二重な意識と名づけるべき鋭い意識のバネのせゐだつた。読者は房一の幼時から彼の額に現れた一本の深い皺と、彼がしばしば陥る沈思の様子を記憶されてゐるだらう。空想家ではなかつたにもせよ、彼には事態の真底を見抜く直観力があつた。恐らく誰もまだ気づいてゐないうちに、彼はその人の持ち上げにかゝつた所に迂散臭《うさんくさ》いものを嗅ぎつけた。たとへ思ひがけないはずみで捲きこまれたことだつたにしても、彼は自分の中に一脈の危険さを、彼を生かすのもそれだが亡《ほろぼ》すのもそれだ、といつた風なものを感じてゐた。それは別にはつきりとしたことではなかつた。が、少くとも彼の意識の穂先には微妙にふれてゐるものだつた。

 だが、その幾日かも過ぎると、又あの、恐るべき変化を蔵しながら一見何一つ変つたこともないと感じさせる、単調な何気ない日々がつゞいた。何かしらはつきりし、又何かしらとりとめもなく、空は冷い輝きを増し、山々の稜線はかつきりとし、葉の落ちつくした雑木山はずつと遠くのものまでが殆ど信じられないくらゐの細かい枝を無数に目に見させ、ブラッシの毛並みのやうな渋い赤褐色をどこまでもどこまでも拡げてゐた。
 房一は近い往診の帰りに河の石畳みの土手をつたつて歩いてゐると、広い河原を前にし土手沿ひの小高い畑地の端に立つて、特長のあるごつごつした頭骨を露《あら》はにし、両手を帯の前にはさんだまゝ、殆ど反《そ》り身に立つたまゝあたりを眺めてゐる男を見た。
 紛《まが》ふことなく、それは神原喜作だつた。
 房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つてゐた。
 喜作の方でも、房一の来るのを認め、
「やあ。先日はどうも」
 と、微笑しながら頭を下げた。
 今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。
「閉口でしたな」
 房一が云ふと、喜作は突然びつくりするほど大きな口を開けて笑つた。
「いつこちらへお帰りでしたか」
「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
「ちつとも知りませんでしたよ」
「なに、ろくでもない用事で帰つたもんですから、どこへも失礼してゐたんです」
 あのことだな、と房一は思つた。訊いてどうかな、とは感じたが、相手があまりさつぱりしてゐるので、
「訴訟があるさうで、面倒なことですな」
と、云つた。
「さうです。相談があるからと云ふんで帰つて来たんですが、僕なんか何も問題はありませんよ。返すものがあれば、いつでも返します。何もないんですよ。家と、田地が少し。それも抵当に入つてゐますよ。僕がしたわけぢやない。兄貴が選挙の費用だの何だので金が要つたのでせう」
「さうですか」
 答へながら、他人ごとのやうにずばずば何でも話してしまふ喜作の飾り気のなさに、驚いてゐた。
 一息に話してしまふと、喜作は依然としてさつきのまゝの姿勢で、いかにも気持よささうに、あのごつごつした、年に似合はず毛のうすい頭をむき出しに日にさらし乍ら、遠く河下の方に開けた空と、その下に低く横はつてゐる丘陵地に目を放つてゐた。
「それで、近く片づきさうなんですか」
「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩《うる》さがりもせず答へた。
「まだなかなかでせう。永いこつてすよ」
 房一は思はず笑ひ出した。
 喜作と別れてから、房一は歩きにくい足もとの円石に目を落して何となく考へこんだ風に歩いて行つた。
「永いこつてすよ」――そのきつぱりとし、そのためにかへつて本当の永さを、あのつきることのない、何かしらにみちた前方の日々を現してゐるその云ひ方が、ひどく房一の頭に残つてゐた。
 それはさうだ、永いことにちがひない、と房一はゆつくりと歩きつゞけた。多分、彼は彼で、自分のこれからの生涯を、その計りがたく、茫漠とした行手を見てゐたのだらう。
[#地から1字上げ](昭和十六年四月)



底本:「筑摩現代文学大系 60 田畑修一郎 木山捷平 小沼丹集」
   1978(昭和53)年4月15日初版第1刷発行
   1980(昭和55)年7月30日初版第2刷発行
初出:「医師高間房一氏」砂子屋書房
   1941(昭和16)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくって
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