けでね」
と、小谷が云つた。
「あゝ、よからう。大賛成ですよ」
のむことなら! といふ風に、練吉は切れ目をぱちぱちさせた。
四
御大典とそれにつゞく奉祝日は瞬《またゝ》くまに過ぎ去つた。
河原町では、山車《だし》や仮装行列のほかに、夜に入つては提灯行列が出たし、町の上手にある神社の境内では奉祝の花競馬も行はれ、射撃大会まであつた。競馬の行はれた境内は不断殆ど人気のない所で、そこには永い間風雨にさらされて木口《こぐち》がすつかり灰白色になつた大きい拝殿がゆるんだ屋根の端を高いところで傾けてゐた。そこには紅白の幕が張られた。走路は拝殿のわきのかなりな池の周囲に造られたが、所々に笹を立て、それを荒縄でつないだだけで、方々から集つた馬は大抵胴がいやに太くて足の短い、腹や胸のあたりにぼさぼさした毛の生えた代物だつたが、わきに外《そ》れやうとする馬は周囲を黒山のやうに囲んだ見物人達の喚声と棒切れとで又内側へと追ひこまれ、池の中にはまりこみ、泥まみれになつて走つたりした。拝殿の観覧席には相沢知吉の顔が見えた。彼の持馬も出場したのである。相沢は例のカーキ色のズボンをはいて来たが、馬には乗らずに牽《ひ》いて来たのだつた。見ただけでのろまな在馬《ざいうま》にくらべると、相沢の馬はずば抜けてゐた。かなり遠方からやつて来たといふ栗毛の馬と競《せ》り合つたあげく、相沢の馬は優勝を獲《か》ち得て、賞品の幟《のぼり》と米俵とを悠々と持つて行つた。射撃大会は猟天狗仲間が河原に集つてクレーの射撃をやつたので、これには大石練吉が自慢のマンチェスターの銃を携へて出席した。発条《ばね》が跳ねる、とクレーはちやうど山鳥か何かが飛び立つかのやうに、ゆるい弧を描きながら青空に投げ出される、その瞬間、射手は腰のあたりに構へた銃をすばやく肩に引上げ、パンといふ音が響き、クレーは微塵に砕け散つた。が、大半は遠く河原の上に落ちてそこで砕けたやうであつた。後で格別噂が立たなかつたところを見ると、練吉は不成績だつたのだらう。
が、それもこれも一週聞か十日たつうちには、たちまち漠とした過去の中に滑りこんでしまひ、目立たなくなり、ぼやけ、遠のき、ふたゝびあの河原町特有の単調さがあたりを支配し、だるげな瀬のどよめきが耳につき、季節の曖昧な足どりが現れ――或る日はさらさらいふかすかな音を立てて雨が通りすぎ、曇つて何となく冷え、急にぱつと日ざしが輝き、又冷え――そして、年ごとに絶えず繰り返へされながら絶えず或る新しさを持つて、慣れることのない、捉まることのない冬が、底冷えと疾《はや》いおびたゞしい雪もよひの断雲と刺すやうな寒風とを伴つてやつて来た。
「さうだ、君はあの時の射撃大会に出たさうだね」
と、酒が少し入るとすぐ真赤になる性質の房一は、その紅黒い顔を火照《ほて》らせ、円い身体を持扱ひかねたやうになつて訊いた。
「うん」
練吉は盃を口にふくみながら答へた。
「射撃たつて、あれはクレーとかいふものを射つんでせう。わたしはね、他に何か的《まと》でもあるのかと思つたら、何のことはない、小さなカワラケの皿をね、かうひよつと機械仕掛けでとばしてね、――そいつを射つんでせう。なるほどうまい仕掛けにはちがひないが、見てゐるとあつけないもんですな。それに音だつてね、景気よくないんですよ。ボスツといふやうな音でね」
小谷はやさしみのある顔をぽつと紅らめ、いくらか饒舌になり、それと共によけいきいきいする声で話した。
「それあきまつてる、猟銃だもの」
練吉はもうさつきから殆ど一人でぐいぐいやつてゐるにもかゝはらず、むしろ青い顔だつた。
例の奉祝行列のお終ひに小谷から慰労宴をやらうと云はれたときに、房一は道平が練吉の診察を受けたまゝになつてゐるのを気にかけてゐたことを思ひ出し、練吉をも加へて小谷と二人を招待しようと云つたのだが、小谷はそれはそれ、これはこれと云つて聞き入れなかつたので、改めて今二人を料亭染田屋に招いたのであつた。
「ほう、クレーといふのはカワラケのことかね」
と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。
「さうなんですよ。ですが、よく考へたもんだと思ひましたね、足もとから鳥が立つ、といふでせう、――あれとそつくりにね、かうひよいとカワラケがとび出すんですよ」
「さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな」
「はゝゝ、でもカワラケにはちがひない、それがかうひよつとね」
小谷は酔つて来たのだらう、何度も同じ手真似をして見せた。
「まづい、まづい。酒がまづくなる」
と、練吉はわざとらしく顔をしかめてみせた。
「ところがね、大石さんの銃は、あれはマネスターと云ひましたかね、あのマネスターは立派なんだけどなあ。そのわりにあたらないもんですね」
その時、練吉はぐつと盃をつきつけた。
「まあ、のみなさい」
「買収ですかな」
いくらか浮《うは》つ調子に口の軽くなつた小谷にひきかへ、今夜の練吉は何となく元気がなかつた。細かいながらに絣《かすり》の目のはつきりした大島の上下揃ひを稍ぞんざいに着こみ、吃り気味に話をする彼には、だらりとした様子と同時に、どこか家風の結果といふやうな一脈の潔癖さが混交してゐた。
「あ、さう云へば」
と、房一は練吉の顔を見て思ひ出したらしく、
「昨日、君とこの奥さんがバスに乗るところを見かけたが、――」
「うむ」
突然、練吉の顔には一種の生気が、何となくもう一人の練吉といつた風なものを思はせる疳の気配、子供染みた我儘さが顔にさし、あのひつきりのない目瞬《またゝ》きが止んで、切れの長い目が眼鏡の奥でぢつと線を引いた。
「あいつも、君んとこと同じで、子供ができたらしいよ」
と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。
「ほう、さうか。それはちつとも知らなかつた」
「うん」
練吉はそれなり黙つた。
その様子で、房一は今は隠れもない大石家の内部のごたごたを思ひ出したので、いさゝか間が悪いと云つた顔をしてゐた。――練吉の妻の茂子は、九月に入つてまもなくぶらりと大石家へもどつて来た。それは一日か二日姿を消してゐた飼猫がふたゝび舞ひもどつて来たやうな工合だつた。さういふ様子は茂子自身にあつたばかりでなく、大石家の老夫婦にもあつた。が、どういふはずみからか、今まで何年かその気配もなかつた茂子には、十一月に入つた頃から妊娠の兆候が現れた。万事投げやりだつた練吉にも意外だつた。そして、老夫婦と茂子との不和に気を腐らせてゐた彼は、これが案外緩和剤になるかもしれない、と考へたところが、それを聞いた老夫婦はちよつと眉を動かせたきりで、云ひ合はせたやうに黙つてゐた。多分、老寄《としよ》りに特有な気の廻し方で、茂子に実子ができれば継子である正雄に対する愛がうすらぐとでも考へたものだらう。この気持は当然茂子に反映した。それに、彼女のつはり[#「つはり」に傍点]は重い方だつたので、さういふ状態で老夫婦と同居してゐるのは以前よりも辛かつた。で、今度は両方の公然の申し合せで、身体を休めに実家へしばらく行つてゐることになつた。房一が見かけたといふのは、茂子の帰るところである。
房一は話を変へた。
「なんだね、クレーの射撃なんてものは昔はなかつたもんだが、こなひだの競馬は僕も見たけれども、子供の時以来十何年ぶりのわけだが、あれはちつとも変つてゐないね。優勝の景品が米俵だなんてね」
「去年はなかつたんですよ。何でも博労《ばくらう》同士のうちわ揉《も》めがあつたとかでね」
と、小谷が云つた。
「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」
房一は目を輝かせて云つた。
「なに? 競馬のこと?」
と、急に練吉が小耳にはさんで云つたのは、多分黙つて他のことを考へてゐたのだらう。
「僕はクレーが済んでから行つたんでね、もう終りで相沢の馬が勝つところだけをちよつと見たよ。――相沢、得意さうだつたぢやないか」
「御機嫌だつたね」
さう答へながら、房一はふいに、競馬場で会つた相沢のことを、そのとき彼が何だか意味ありげに云ひのこして去つた言葉を思ひ出した。
房一は早くから競馬を見に行つてゐた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来てゐることを教へた。席が混んでゐたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張《よしずば》りの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいてゐた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
「やあ」と、目で挨拶して何気なく行き過ぎようとすると、相沢は殆ど判らない位に軽く房一の腕にさはつて引きとめた。そこは拝殿からも馬場からも大分離れた場所だつた。あたりに人はゐたが、顔見知りはなかつた。相沢はあなただけに、といふ風な一種秘密げな顔をしてゐた。房一は殆ど直覚的に、それが訴訟に関係したことだ、と悟つた。あの訴訟については、昨冬以来相沢は度々地方裁判所のある市に出かけ、鍵屋の方でも弁護士を立てて一二度審理があり、証人の申請があつたとかいふやうな話を、房一も聞いてゐたが、鍵屋の方では口を緘《かん》して語らないし、成行は他の者には少しも判らなかつた。その噂の最初がやかましいものだつたにかゝはらず、何にしろ事件はこの土地からはるか離れた所で遅々として進んでゐるのか停滞してゐるのかわからない位であつたから、いつとなく遠耳になつてゐた。しかし、相沢を見た瞬間それを思ひ出さずにはゐられなかつたのである。
「あのね、何ですよ――」
と、云ひかけたまゝ、相沢の黒味の多い眼はぢつと房一の顔をのぞきこみ、云ひかけたものがその中で煙つてゐるやうな表情をした。
「はあ」
と、房一は自然と紅黒い顔をひきしめた。相沢は随分永い間、それこそ房一がうんざりするほど永い間こつちをのぞきこんでゐたが、
「いや、そのうち。――ぜひ御相談があるんですが。――そのうち、一度来ていたゞいて。いや、私の方から出かけませう。や、又――」
と、さつき目にもとまらぬ速さで腕にさはつたときと同じく、軽くすつと身をひくやうにしたかと思ふと、もう背を向けてそゝくさと葭子張りの便所に入つて行つた。――
それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じてゐたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつてゐた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残してゐた。
「あの訴訟はどうなつたのかね」
と、房一は小谷に向つて訊いた。
「なに、訴訟?」
この時、練吉が又小耳にはさんで訊き返した。が、明かにそれはさつきの小耳訊きとは様子がちがつてゐた。殆ど一人で盃を傾けてゐたせゐもあるが、つい今まで沈んでゐた練吉は僅かの間に一足とびに深い酔の中に入りこんでゐた。
「どこの訴訟だ。なに鍵屋、うん、相沢か」
練吉の額は今青いと云ふより磁器のやうな冴えた白さに変つてゐた。目瞬きはぴつたりととまり、線を引いたやうな切れ目が深く長く、宛《あたか》も部厚い眼鏡そのものに入つたヒビ割れのやうに見えた。そして、
「なあんだ、まだ訴訟してるのか」
と、無邪気に、呆《あき》れたやうに云つた。
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
「まだ? ふん! よせ、よせ。阿呆らしい」
練吉は顔をしかめ、手を振つた。
「おれは!――」
と、何か威勢よく云ひかけたときだつた。小谷は急に聞耳をたてた。小谷ばかりではない、房一も――半鐘が鳴つてゐた。たしかに! それは、はじめ三連打を二度ほど、ちよつと途切れ
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