》みがたい世の中でやはり捉みがたい者としてしか現れない数しれない人達、その中から或る人の姿が突然身近かにかけがひのない者として感じられ、その人の心がこちらのすぐ胸の傍にあり、心はたがひに行き交《か》ひ、温め合ひ、それによつてこの世の中そのものが今までよりもはるかに広く、なほ確かに感じさせるやうなもの、――それを由子は盛子の中に見つけたのだ。
 突然はじまつたこの二人の親密な往来を、小谷は苦笑しながら、半ば無関心で眺めた。女といふものは妙なことから仲よくなるものだ、と思つた。が、由子の口から盛子のことを聞くにしたがつて、彼は高間医院について満ざら他人でもないやうな気に自然となつた。
 あの鍵屋の法事の席には小谷も居含せた。彼はそこで殆どはじめてと云つてもいゝ位に高間房一を見、その思ひ切つた振舞を目にした。房一の去つた後では誰も何も云ひはしなかつた。彼等はたゞ黙つて見送つただけであつた。だが、房一の印象は強く皆の頭に灼《や》きつけられた。何かしら挑《いど》むやうな、強《し》たゝかな足どり、――だが、それは表面筋が通つてゐて誹難することはできなかつた。
 町の一部では房一が「席を蹴立てて帰つた」といふ評判だつた。それが何か乱暴でも働いた、といふやうに伝つて、噂を聞いた老父の道平は河場からわざわざ様子を聞きに来た。
 庄谷はあの冷笑するやうな白眼で、物好に訊きたがる人に答へた。
「ふん。何でもありやせんよ。大方、腹でも痛かつたんだらう」
 が、要するに房一が腹に据ゑかねて座を立つたのはもつともだ、といふことに落ちついた。何でもなかつた。鍵屋の隠居が面喰つただけだつた。房一の方から云へば、彼は自分の存在を認めさせることになつた。それは、手ごはい、喰へない男、としての「医師高間房一」だつた。そして、こんな風に善かれ悪しかれ人に取沙汰される男は、河原町ではきはめて興味ある存在にちがひなかつた。
 小谷の店では実にあらゆる品を売つてゐたが、その中には僅かだが薬品類もあつた。したがつて、高間医院は小谷にとつて多少のお得意先でもあつた。今では、小谷は心易立てに注文のあつた薬品を「店主自から」ぶらさげて房一の所へ持つて行き、そのまゝ話しこむやうになつてゐる。

 房一の竿に最初のやつが掛つた。
「おつ」
 といふやうな声を出して、彼は満足と緊張とのためにあの調子外れな表情になつて、撓《しな》つた竿をしつかりと引きつけはじめた。
 荒々しい鮎の走りが竿から腕に、腕から身体の隅々まで伝はつて、それは彼の胸いつぱいに快い感動をひき起した。糸をひきよせるにしたがつて、二つの鮎のひらめきもつれる形が見えた。この二つの生き物は、まるでその持つ力以上の力といふやうなものに駆《か》られてゐる風に、走り、浮き、旋回し、沈みしつゞけてゐた。手早く網ですくふ。パシヤパシヤ水が跳ねて、獲物は房一の手の中で強くビクビクと動きやまない。追鮎はまだ元気で、背の色も濃い。ふたゝびそいつを放すと、追鮎は又以前よりもはげしく流れの中央に向つて走り出す。まだすつかりさめ切らない興奮の快さに、ぢつと竿を見まもつたまゝ何か忘れたやうになつてゐると、やがて又あの強い引きがいきなり彼の腕を胸を荒々しくよびさます。
 房一はすつかり夢中になつてゐた。
 はじめの中は房一の傍で指南顔に見てゐた徳次も、やゝ下手の流の中につゝ立つて、身動きもしない。ほつそりした身体つきの小谷は、いつのまにか対岸に渡つてゐて、これも深い黙想に似た形に稍首をかしげて凝然《ぎようぜん》としてゐる。獲物はちよつと途絶えたが、しばらくすると又掛りはじめた。
 房一は何もかも忘れてゐた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれてゐたが、それは却つて或る夢中な輝きを示してゐた。彼は何ものかに捕へられてゐた。何かが胸の奥深くでよびさまされてゐるやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つてゐる沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確《し》つかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
 ふいに、彼は頭を上げた。
 はるか下流の方で、鈍いが、重味のある大きな音が響いたのだ。それは、はじめぼおーんといふ風に聞え、つゞいてドカンドカンと来た。
「ふむ、トンネルのハッパだな」
 さう呟きながら、下手を眺めた。
 手前の方では音もなく縞をつくつて速く流れてゐる河は、ずつと先の方で細い、ちらちらした、絶え間なく動く縮緬皺《ちりめんじわ》となつて見え、そこに素晴しい高さの岩がによつきりと宛《あた》かも河を受とめた工合に立つてゐた。その蔭にあたる河縁《かはぶち》には急ごしらへのバラック建が点々としてゐた。それは工夫小屋だつた。鉄道工事がつい二三ヶ月前からはじまつたのである。
「おーい。渡つてもいゝかね」
 小谷が対岸から流れを指しながら叫んでゐた。房一の竿の前を渡渉《とせふ》するので承諾を求めたのだ。
 房一は大きくうなづいて見せた。もう獲物は大分前からとまつてゐた。

     二

 日は高く上つて、噎《む》せるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠《びく》を中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
「やつぱり徳さんが多いね」
 小谷は疳高い声で云つた。
「それあ、あんた」
 云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦《こばか》にした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つてゐるので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。
 その時、又あの鈍い重量のある音が下流の方からどよめいて来た。それは前のよりもはるかに大きく、つゞけさまだつた。
「何だらう?」
 小谷は不安げに呟いた。
「ハッパさね」
 と、ちやうど追鮎箱のところへ立つて行きかけた徳次は、事もなげに云つた。彼はその水際のところでいきなりシャツをはぎとると、バシヤバシヤツと水洗ひをして、それを日に焼けた石の上に乾した。そのまゝ房一と小谷の前に来ると、美事な半裸体のまゝ腕組みをして突立つた。一種単純な、力づくといつた様子が現れてゐた。
「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」
「さうだつてねえ」
 小谷は仰山《ぎやうさん》な表情になつた。
「うん、おれもこないだ通り合せたんだが、前を山支度の娘が寵をかついで歩いてゐるんだな、するとやつぱり大声でからかつとつたよ」
 房一は苦が笑ひをした。
「いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう」
「困つたもんだね」
「何しろ、わや苦茶だ」
 徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
「だいいち、あすこの小倉組の親方といふのがね、うちの店へもたまに買物に来るんだが、鬼倉といふ綽名がある位でね、見たところ痩せつぽちのさう強さうもない奴なんだけどね、すごいんださうだ。――こないだも郵便局で見た人があるんださうだが、配下の者が何かしつこく不服を云つたら、いきなりかう、二本の指でね――」
 と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
「ズブリと相手の眼の中へさしこんでしまつたさうでね。――親方すみません、とあやまつたと云ふんだが、どうもね、――何しろ他の人の見てる前でやるんだから、たまつたもんぢやない」
「へえ。――ズブツとね」
 徳次は指で真似をした。
「そんなことができるもんかねえ」
 半ば感心し、半ば疑はしさうに、彼は指を自分の眼に向けてみた。
「眼が潰《つぶ》れちまふ――ねえ、先生」
「ふうん、潰れるだらうな」
 房一は笑つてゐた。
「鬼倉といふのは女を二人置いとるさうぢやないか」
「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和《おとな》しくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在《ざい》の者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄《こづか》みたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」
「ふうん。ひどい奴だねえ」
 小谷の話で、徳次はすつかり興奮したらしかつた。そのきよろりとした眼はすつかり開けひろげられ、一種|上《う》はずつた色が動いてゐた。何となく落ちつかない様子で上半身をぐらりとさせ、無意識に片腕を振り降した。そのはずみにひよろ長く生えた雑草に手を伸して引き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り、それを口にくはへた。
 その粗暴な外見とは反対に、徳次はさういふ血生臭《ちなまぐさ》いことが嫌ひだつた。そして、人並外れた敏感さを示すのであつた。今もそれで、彼はいかにも心外げな様子を、その無意識な仕草の中に現してゐた。
「わしは反対だ!」
 何となく、彼はさう云ひたげであつた。実際それは咽喉まで出かゝつてゐた。若し彼が理窟といふものを知つてゐたら、日常の些細《ささい》な事柄からでも尤もらしく意見をすぐに云ひ立てるあの「町の衆」のやうな頭があつたら、彼は勢ひこんで口にしたであらう。だが、彼はさういふ小むつかしいことは面倒臭かつたし、又下手だつた。彼はたゞ感じた。そして暖昧な身振りをしただけだつた。

 遠くの方で誰かが呼んでゐた。
 河原の端にある高い築堤の上で、白い割烹着《かつぽうぎ》を着た女が、口に手をあてて何か叫んでゐた。
 それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしてゐた。
 聞えないといふしるしに、房一は手を振つて見せた。それが盛子にも解りにくいらしく、しばらくためらひ気味に立つてゐたが、やがて河原へ下る段を降りはじめた。
「患者さんですよう」
 近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にゐる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括《くゝ》られてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれてゐた。
「うん、今帰るところだ」
 と房一が答へた。
「獲《と》れましたか」
 盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。
「いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ」
「さうですか。それは――」
 心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的な確《し》つかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。
「あら、ほんとうに沢山とれたんですね」
 房一の魚籠《びく》をのぞいて、盛子はびつくりしたやうに叫んだ。
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
 房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。
「いゝ恰好で!」
 盛子は笑ひながら顔を紅らめた。
「何んの。面倒だからこのまゝ行かう」
 房一はズボン下を円めて魚寵といつしよにぶら下げながら、丸出しの肥つた足でぴよいぴよい河原石の上を先に立つて歩いた。

 ごろごろする石の上を下駄ばきでは歩きにくかつた。房一は川から上つたまゝの濡草履をはいてゐるので速い。盛子は空《か》らになつた追鮎箱を手にして後からついて行つた。
「ねえ!」
 築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。
「うん」
 生返事をしてそのまゝ登つて行く。
 が、登り切つ
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