た所で、ふりかへつて盛子を待つた。そして、何となく様子のちがつたゆつくりさで登つて来る盛子の、上《う》は目になつた、意味ありげに笑つてゐる顔を見た。
「ねえ」
 盛子は妊娠してゐた。
 もう一月あまり前から気づいてゐたのだが、はつきりしなかつた。云はうか云ふまいかと迷つてゐた。たつた今、大きな麦藁帽子の縁で半ば隠されてはゐるが、むくれ上つた幅の広い肩がぴよいぴよい目の前を歩いてゆくのを見てゐるうち、突然云ひやうのない親しさの感覚に捕へられた。打ち明けてみたくなつた。何にも如らないで、こんなに変な風に脚を丸出しにして、私にはおかまひなしに先を歩いてゐる!
 並んで立つと、いきなり
「わたし、あれ[#「あれ」に傍点]らしいのよ」
 云ひながら、ぽんと軽く下腹をたゝいてみせた。そして、微笑した、悪戯《いたづら》つ子のやうな目つきで、ぢつと房一の顔をのぞきこんだ。それは驚くほど巧みな打明けだつた。
 房一は面喰つて、ぽかんと口を開けた。
「いつから――?」
 やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いてゐる生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知してゐる筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いてゐるのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つてゐる盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑してゐる切れの長い眼つき、悪戯《いたづら》つぽさと羞《はにか》みとのまざり合つてゐる様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。
「ふむ、さうか」
 感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。

     三

 裏口から家の中へ入らうとした時、房一はそこの小路つづきの先きの方に彼の帰りを待ち構へてゐたらしい様子で突立つたまゝこちらを眺めてゐる二人の男に気づいた。
 二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏《しるしばんてん》を着てゐた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見ながら何か云つてゐた。
 房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。
 そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされてゐた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出してゐた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めてゐた。
 房一がそこへ出るのと、さつきの二人が表から入つて来るのと同時だつた。
 半シャツの男が進み出た。
「せんせい[#「せんせい」に傍点]ですか」
 関西|訛《なまり》の特長のある呼び方で、彼はちよつと頭を下げた。それはお辞儀といふよりも、何か強談を持ちかけるといつた工合の、一種の身構への感じられる強《き》つい調子だつた。
「さうです。――どうかなさつたかね」
 房一はその時|逸《いち》早く、横に寝かされてゐる男の投げ出した手首に血がかすりついてゐるのを、そして寝ながら立ててゐる片足のズボンの膝のあたりにもどす黒い斑点の沁みてゐるのを見てとつた。
「へえ。――わし達は小倉組の者ですが、ちよつと怪我人ができましたよつて、せんせいに御面倒かけに上つたんですが」
 口を利くのは半シャツの男だけだつた。恐らく四十前後だらうが、前額のひどく禿げ上つた、痩せ身の、鼻下にちよつぴりした髭をつけてゐる、がそれらを貫いてゐる表情は何か殺気のある精悍さといつたものだつた。口をきく度に、彼の眼は喰ひこむやうに相手を一瞥した。
「小倉組といふと、下の工事場の方ですな」
 房一は、これは煩《うるさ》い相手だなと思ひながら、わざとゆつくり構へてゐた。実は、さつき裏口から二人を見かけた時に、すでにぴんと感じてゐた。こんな風体の連中は河原町には他にない。それに、今しがた川岸で話に出たばかりの所だつたので、房一にはよけい強く頭に来た。
「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」
 彼は男の顔を蔽つてゐる手拭をとりのけながら云つた。
 男の顔は泥と血で汚れ、かすり傷が一面についてゐた。顎の所にかなりひどい裂傷があり、血糊が固くこびりついてゐた。どこか打撲傷をうけたらしく、一見したところ気息奄々《きそくえんえん》としてゐたが、房一が手拭をとり除いたときに、男はかすかに眼を開けて房一の顔を見た。
 二人が男を抱き起して、レザア張りの診察台へつれて行つた。男は殆どされるまゝになつてゐたが、身体は案外自由が利くらしく片手をつかつて横になつた。そして又もやぱつちりと眼を開け、不安さうに房一を見上げた。
「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」
 と、房一は訊いた。
 男は眼を閉ぢた。何も答へなかつた。
 印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。
 男は病人から房一へぎろりと眼を移すと、
「せんせい[#「せんせい」に傍点]!」
 と、いきなり云つた。
「何んにも訊かんといて下さい。ちよつと間違ひが起きたんやで、――それは、後でお話しますわ――とにかく、手当を頼みます」
「ふうむ。いや、よからう」
 房一は傷を調べにかゝつた。後頭部にもあつた。身体にへばりついたシャツをはぎとると、背部に最もひどい傷があつた、それは紛《まが》ふところのない刃物による刺傷だつた。新しい血がはぎとられたシャツの下から、瞬《またゝ》く間にふき出し、滴《したゝ》り落ちた。
「おつ! こりあいかん」
 房一は急いで膿盆をひきよせた。
「ひどい傷だねえ!」
 思はず口に出かゝつたが、慌ててのみこんだ。彼の頭には今やすべてが明かになつた。土工仲間の刃傷沙汰だつた。その息づまるやうな情景が頭に閃《ひらめ》いた。
 房一のまはりには三人の男が立ちかこんで、黙つて治療の様子を見まもつてゐた。背中をむき出しにして横向きに寝た男は、傷を洗はれるときに呻《うめ》いた。血の気の引いたその顔にはどす黒い蒼白さが現れた。
「痛むか?」
 男は眼を閉ぢたまゝだつた。
 傷は三箇所を縫つた。
 顎から後頭部にかけてと背部と二所を大きく繃帯でぐるぐる巻きにされた男は、やがて待合室へつれて行かれ、ごろりと転がされた。はじめからしまひまで一言も口を利かなかつた。
 真黒い顔の男が傍によつて訊いた。
「どうだ。起きられるか」
 その時やつと、男は少しうなづいた。そして背中に負はれて出て行つた。
「どうも、済んまへんでした」
 半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。
「もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます」
「――?」
 房一は目を上げて何か訊きたさうにした。それを押へるやうに、
「なあに、後から来るのんはほんの擦《かす》り傷みたいなもんやから、大事ありません。――時にせんせい、何んぼ差上げたらえゝでせう?」
 云ひながら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでゐた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。
「それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ」
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
 男はうむを云はせなかつた。
「よし、それでは預つとかう」
 房一はきつぱり云つた。男は、これは話が判る、といふやうな顔をした。それに押つかぶせるやうに、
「たゞし、預かるだけだよ。この分が残つてゐる間はいくら後から来ても貰はんよ。いゝかね」
 男はじろじろと房一を見てゐた。
「それは、せんせい[#「せんせい」に傍点]のお考へに任せますわ。――ですが、今日のことは、ほんの内輪の間違ひやさかい、そのことは含んどいてもらはんと困ります。よろしいな。――内輪のことや」
 男は語尾に力を入れて、房一の眼の中をのぞきこんだ。
 房一はその時診察用の椅子に腰を下して、ゆつくりと煙草をふかしながら、何気ない風で男の様子に目をつけてゐた。彼は男の要求する意味を悟つた。たゞ治療をしろ、他のことは見て見ぬ振りをしてくれ、まして他言は無用だ、といふ意味だつた。
「よからう」
 男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持してゐた。
「よろしい。承知した」
 男は一歩下つた。
「大きに。ありがたうござんす。よろしう頼んます」
 さう云ふと、男は入口に待つてゐた印袢纏の背の高い男とつれ立つて、高間医院を出て行つた。

 房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めてゐた。
 それは六月も末のかつと輝いた午《ひる》近い一つ時だつた。いや、正午はもう廻つてゐるかもしれない。畑地には道路のすぐ傍にあまり大きくない柿の木がぽつんと一本だけ立つてゐた。その葉はまだ新芽の柔かさを保つてゐた。日にきらきらしてゐる。さうやつてひとりでに自分を磨いてゐるみたいだつた。誰も表の道路を通らなかつた。
 何となく身体が倦《だ》るかつた。それにちがひはない、今日は珍しく朝早くから川につききりで、おまけに呼びもどされるとすぐ今の騒ぎだつた。埃で黄くなつた頭髪、泥と血の塊り、男の不安げな眼、それからあのいくらか仁義を切るやうな半シャツの甥の身構へだの、それらがもう一度頭の中に蘇《よみがへ》り、一列になつて通つて行つた。
 房一は苦笑した。とにかく珍客にはちがひなかつた。そして、たつた今さつきまで房一は彼等のお見舞ひでわれ知らず興奮し、緊張し、それからあの半シャツの男と言葉の上でなく、眼と眼で、構へと構へでやりとりした、それが突風の去つた後のやうな軽いあつけなさを残してゐた。
 が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでゐることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。
「あれ[#「あれ」に傍点]らしいのよ」
 さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しな[#「しな」に傍点]のある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つてゐた。
 房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつてゐるのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしてゐる、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つてゐた。が、今彼の感知してゐるものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしてゐるが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしてゐる、温い、柔い、――
 房一は椅子から立ち上つた。
 膿盆だの鋏、脱脂綿の袋などがまだ散らかつたまゝになつてゐるのを片づけはじめた。
 ふと気づくと、玄関に人が立つてゐた、半シャツの男だ。瞬間、又来たな、と思つた。
 が、それは徳次であつた。
 きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして
「もう帰つたんかね」
「――?」
「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」
「うん、もうさつき帰つたよ」
「さうか、惜しかつたな」
 徳次は足を踏ん張つて立ち、まだそこら中を見まはし
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