る物腰で、房一の挨拶を受けたのだつた。

   第三章

     一

 日々は平凡に単調に過ぎて行つた。
 それは、開業当時のあの身体が自然と弾《はず》んで来るやうな、患者に向ふと必要以上に診察したり、相手が求める以上にくはしい説明を長々と熱心に云つて聞かせたり、忙しげに薬局と診察室の間を往来しながら待つてゐる人達に声をかけたり、さういふ房一の活気にみちた様子が見る人ごとに快い気持を惹き起させた、そんな張り切つた頃にくらべると、今はまるで時間が急にその歩みをとめて、のろのろと動いてゐるやうに感じられた。
 患者の多くは近在の農夫達であつた。それは大体に於いて、開業以前に予想してゐた通りだつた。鈍《の》ろい、ゆつくりした口調で声をかけながら、彼等はおづおづと高間医院の玄関を入つて来る。彼等は医者に診てもらふためにわざわざ河原町へ出て来るのではなかつた。農具とか種物とかを買ひに出て、ついでに立寄るのであつた。それで、彼等の病気はすでに治療の時期を失してゐるか、でなければ手のつけられない慢性のものが多かつた。
 さうかと思ふと、朝早くから農婦たちが背中に子供を負ぶつてやつて来る。それが唯一の目的のときには恐しく早朝に出かけて来るのであつた。さういふ場合にかぎつて、房一は彼女等の背中に、熱ばんだ小さな顔を上向きにして喘《あへ》ぐやうな呼吸をしてゐる幼児を見、その手遅れであることを認めるのであつた。
 高間医院の待合室で、彼等は馴れない薬の香を嗅ぎ、一様に重たい、沈んだ表情を浮かべて、或る者は黙つて放心したやうに戸外を眺め、或る者は低いゆつくりした声でぽつりぽつり話し合ふのであつた。汗ばんだ匂ひや土の香、洗ひざらしの紺の野良着、熱の気配――それらは或るたとへやうもない倦怠と肉体的な不快を呼び起させる何物かによつてみちみちてゐた。それは農夫達の生活の一部が方々からこの待合室に持ちこまれて、この一所に、陰鬱な空の気配や、石塊《いしくれ》の多い山合ひの畑での労苦や、長い畦《あぜ》の列や、それらのいつしよくたになつた重々しい雰囲気を再現してゐるやうに思はれた。
 だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診《み》てもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾《か》しげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びてゐた)彼の持牛についた虱《しらみ》をとる薬はやはり人間にも同じ効《き》き目《め》があるのかね、と訊いたりするのであつた。
 かういふ場合によく現れてゐるやうに、彼等は、房一が農家の出であるといふことで非常な気易さを感じてゐるらしかつた。同時に房一自身にとつても、彼等を診察したり、その苦しげな或ひは面白げな話に耳を傾けたりするとき、非常に馴染深い或る物、彼の存在の奥深くに響き答へる或る物が感じられるのだつた。そして、その或る物は単に彼等農夫との間ばかりでなく、河原町全体、この懶《ものう》げな町の様子や、温かげに見えて手を入れると冷い河の水流や、雑木の目立つ山々や、銅山の廃坑の赤い土肌や、それら全体の中から房一の見つけてゐるもの、そして、その或る物は目にふれるや否や、ちやうど飼ひ慣らした犬が主人を見つけて一散に飛んで来る、そんな悦ばしげな感情をもつて房一の胸にとびこみ、彼の中に柔い落ち着きと平和を築き上げて行くやうであつた。

 川では鮎漁がはじまつてゐた。
 河原町の人達は皆自家の仕事をはふり出して川に出てゐた。彼等の悉くがこの時期には漁師になつたかのやうであつた。まるで諜《しめ》し合せたやうに同じ麦藁の大きな帽子をかぶつて、白いシャツを着こみ、魚籠《びく》と追鮎箱とをガタつかせながら、めいめいの家の裏口から河原に現れるのだつた。
 何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしてゐる彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つてゐるのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つてゐる爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫《な》で上げられてでもゐるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つてゐる彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでゐるのを感じてゐるやうに見えた。
 誰か遅れて来た者があつて、対岸のよい釣場に早く行かうとして腰まで水のとゞく急な流れを渡渉《とせふ》しながら、危く水中に倒れさうになつてゆつくりした滑稽な身振りでもつて片手に竿を片手に追鮎箱を高く差し上げる、そんな様子を近々と認めても、他の者はほんの無関心な一瞥を投げるだけで、微笑すら現すことなく、すぐ又自分の竿の先に、水面に、追鮎の溌剌《はつらつ》とした又しなやかな腹の捻《ひね》りやうにこらすのだつた。誰かが獲物を掛けたらしく、中腰になつて、大きく撓《しな》つたまゝで力強く顫へてゐる竿を両手でゆるやかに引よせにかゝると、彼等は何かの気配でそれと悟るのか、いつせいに釣り手の方をふりむく。釣り手の及び腰の工合や、慌てて手網を探る恰好などから、彼等は獲物の大きさをおよそ知ることができる。一瞬羨しげな表情が彼等の上に共通して現れる。すると、彼等のうちの一人の竿が、突然強い引きを伝へて、それはググ……と快い持続的な引きに移る。つい先刻まで羨望の色を浮かべてゐたその顔は、今や恐しく愉快な緊張のために何だか調子外れな表情になつて、汗がその額を滑り落ちてゐる。他の者は、自分の竿にも同じことがすぐさま起りさうな気がするために、熱心に前方を見まもりはじめる。今釣り上げたばかりの者がゆるゆると次の支度にかゝりながら、不漁の連中を眺めてやつてゐるのに、後者は明かにそれと知つてゐて見向きもしない。急に日の暑さが感じられる。額から首筋にかけて汗のふき出るのがはつきりと判つて、それは拭ふのも忌々《いまいま》しい位だ。獲物がばつたりと止まつて、誰の竿ももう大分永い間空しく動いてゐる。彼等の間では、獲物から惹き起される興奮が言葉のやうな働きをしてゐる。今はその興奮がどこにも現れないので、彼等はおたがひに一種の沈黙が皆を支配してゐるのを感ずる。
 房一も彼等の仲間であつた。だが、彼はその不器用な竿の操り方と、首の短い、肩幅のむやみと広い、上半身にくらべて不釣合に短い両脚や、ぐつと突き出してゐる下腹部(それは服を着た時に堂々とした押出しに見えたけれども)、そんな特長のある身体つきが、彼らしい不様《ぶざま》な身ごしらへのためによけい目立つて、例のおきまりの大きな麦藁帽子や白シャツにもかゝはらず、遠くからでもすぐそれと見分がついた。彼はいかにも新参者らしく真新しい手拭を首にかけて、それを顎の下で変な形に結んでゐた。彼にも、他の者に共通な、あの幸福さうな仔細《しさい》らしい表情が見られた。少年の頃恐しく敏捷だつたにもかゝはらず、近年とみに肥満して来たので、動作が何だか不自由さうであつた。彼は水中の石苔に滑つて何度か転んだ。彼は以前の水遊びを、その頃の巧みですばやい身ごなしを忘れ果てたかのやうであつた。

 房一には連れが二人あつた。
 一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳《くろめ》がちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍《やや》肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つてゐた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳《かん》の強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感《をかん》を覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つてゐた。
「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」
 小谷はしばらく放つてゐた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
 朝早くから徳次が探し歩いてくれたので、房一には追鮎の素晴しいのが手に入つた。浅瀬につけた追鮎箱の中で、肥つた生きのいゝそいつは青黒い美しい背をたえまなく左右に動かしながら、きれいな水に洗はれて、たとへやうもなく靱《しな》やかに強く見えた。鼻先に短い針を通して糸につけて放すと、そいつはいきなり激しい力をもつて水の深みに走つて行つた。
「どうもこれぢや――」
 と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
「徳さんが新しいのを掛けてくれるまで待つてゐた方がいいかもしれませんね、これは」
 小谷は房一に話しかけた。
「うむ、――え?」
 房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはゐなかつた。
 小谷は相手にされなかつたやうに感じてちよつと顔をしかめた。が、しばらくすると又声をかけた。
「どうですか、掛りさうかね」
「いや、まだ」
「あなたの追鮎は元気らしいなあ」
「さう。――いゝやうだ」
 房一は前の方を向いたまゝだつた。
「どうも、やつぱりねえ。調子が悪い」
 さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつてゐるやうであつた。
 小谷は最近になつて、徳次と同じやうに、急に房一と親しくつき合ひはじめた一人だつた。もつとも、彼は徳次とちがつて房一の幼馴染ではなかつた。先代の築き上げたかなり手広い呉服雑貨店をそつくり継いだ、云はば生え抜きの河原町の連中だつた。その彼が房一に興味を持つにいたつたきつかけは、房一の妻の盛子と彼の妻の由子とが偶然同じ町の生れで、もとはそれほど親しくはなかつたが小学校での二三級違ひだつたことが判つてからのことである。盛子よりもずつと若い年にこの土地に嫁に来た由子は、今までろくに気の合つた話相手を持たなかつたので、この偶然をひどく悦んだ。それ以来、由子は裏手の土手づたひにしばしば盛子の所へ来ては話しこみ、盛子も由子の所へ行つた。由子はすでに二人の子持だつたし、その上、小谷が妾に産ませた子供を引取つてゐた。その妾が死んだからである。小谷の放蕩《はうたう》は由子が来る前からのものだつた。今はどうにか自然と止まつてゐるが、由子は結婚以来殆ど楽しい思ひをしたことがないほど小谷の放蕩に悩まされた。そのあげくに、妾に産ませた子を引取らねばならないとなつた時に、由子は又一つ苦労の種を背負ひこむことになると思つたが、小谷の放蕩に悩まされるよりもこの方がどれだけましかしれないと考へて引受けた。こんなことを、つまり、娘の時以来何の面白い日もなく、彼女にとつての「人生」といふものを見、いつのまにか若さが自分から失はれてゆくのを空しく眺めるやうな、これらすべてのことを由子は今までどんなに他人に向つて話したかつたらう、打明けて心の底まで慰めてもらひたかつたらう、――今や、その得がたい相手が現れたのだつた。吾々が、男と女とを問はず、この世の中で真の友人を見つけるのはほんの僅かな又微妙なきつかけからだ。昨日までは別にそれほどでもなかつた、この茫漠とした捉《つか
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