止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしてゐた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へてゐたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つてゐたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうに忌《い》み嫌つてゐた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。
 ――房一がさういふことを耳にしたのはごく最近である。しかし、いづれにしても房一には直接関係のないことだつた。

「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
 銹《さび》のある鍵屋の隠居の声が響いた。しかし誰もすぐに立たうとはしなかつた。身内の者が済んだ後でも順位は自《おのずか》らきまつてゐるのだつた。房一のうしろの方で誰か低い声で何か云つてゐた。見ると、そこには遅れてやつて来た老医師の大石正文がまはりの者からすゝめられてゆつくり立上るところだつた。猫背の痩せて尖つた肩つきは坐つた人達の間を分けて行く時、弱々しげではあつたが、舞台で出場《でば》を心得てゐる老優に見られるやうな落ちつきと確信があつた。次には堂本が立つた。それから大石練吉が眼鏡の下でふしぎな生真面目さを現しながら立上つた。

     五

「あら、お帰んなさい。随分早かつたのね。もう済んだんですか」
 盛子はたつた今さつき一人きりの夜食をすませたところだつた。房一を送り出した後で、一人では別に支度もいらないし、あり合せの物で間に合はせた。餉台《ちやぶだい》の上に並べた食器類もほんの一二枚だつた。いつもは房一と二人なのだが、それは二人が一人になつたのではなく五六人が一人になつたやうな感じだつた。冷えたお惣菜を長火鉢で温めた。それは静かな家の中でたゞ一つの物音のやうにかたことと音を立てて煮えた。何となく、盛子は小さい娘時分のおまゝ事を思ひ出した。そして近来そんなことを一度もしたことはなかつたのだが、小娘のやうな気になつて、煮え上るのを待つ間横坐りに足を投げ出して煮える音を聞いてゐた。
 ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
 一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑《をか》しがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。
 そこへ房一が帰つて来たのだ。盛子は横坐りの所を見られまいとして慌てて立上つた。
「随分早いのね」
 さう云ひながら、盛子はゆつくりと喰べてゐた物がまだ口の中に残つてゐるような無邪気な顔をした。
「ふん」
 房一は怒つたやうな嘲《あざ》けるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついてゐた。
「どうしたんですの? 何かあつたんですか」
 盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつてゐるやうな無邪気さは消えてゐた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。
「途中から帰つて来たんだよ」
 房一はむつつりとしたまゝ答へた。
「途中から――?」
 房一の出先きで起きたこと、何かしら普通でないその事を理解しようとして、盛子は房一の顔をまじまじと見まもつた。
 肉が部厚に盛り上つてゐるために自然と深くできた額の横皺、稍《やゝ》動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出してゐる円い確《し》つかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へてゐたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
 盛子は時々半ば無意識に呟いた。
「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」
 こんな風に「円い」――のだらうか。いや、それはどうでもよかつた。盛子はそこに房一を感じてゐた。それは房一の醜い他の部分を忘れさすに足るものだつた。
 が、ひどく不機嫌になつた時にはこの円味が消えてしまひ、あのどぎつい部分々々がばらばらに突出し一層強くなるやうに感じられる瞬間がある。それは理由なく盛子を恐怖させるものであつた。
 今、房一の顔に現れてゐるのはさういふ怒気だつた。ただ、それは盛子に向けられてゐるのでなしに、房一の内部に立ちはだかり、自ら押へつけしてゐる、それから来る圧迫感だつた。――

 鍵屋へ招かれた時から房一の頭を占めてゐた考へは、その席で恐らく河原町の人達が彼をどんな風に見てゐるかがはつきり判るだらうといふことだつた。かういふ集りでは皆が皆自分の据ゑられる席の上下を可笑しい位に気にする習慣を房一はよく知り抜いてゐた。
 それは莫迦げたことにちがひなかつた。だが、その莫迦げた習慣の中に今房一は身を以て入りつゝあるのを感じた。
 そこで自分がどんな取扱ひをうけるか、あたり前の医者としてか、それとも単に「芋の子」に過ぎなかつた高間道平の憎まれ息子としてか、房一は少からず興味を持つた。が、大体予測がつかないではなかつた。きつと、医者として認めたがらない気持がそのまゝ現れるだらう、と。
 若しさうだつたら、そのまゝおとなしく坐つてはゐられまい。それは、皆の前で公然と頭を押へられた所を自認するやうなものだ。前例にもなるだらう。一度きまつたとなつたら又打破るのは容易ではあるまい。それは、河原町で今後医者として立つて行けないことを意味する。頭を押へられたきり、ついには逃げ出すより他はないといふ破目に陥るだらう。彼は思つた。
「かりに、おれが真正面から反抗的に出て、それがために住みにくくなつたとしても、同じことだ」

 不幸なことに房一の予測はあたつた。いや、それ以下とも云へた。
 焼香が済むと別室へ案内された。だが、こゝでも各自に大体自分の坐らせられる席を心得てゐながら、すぐには通らうとしなかつた。で、神原直造が一々その人の前に行つてそれぞれの席へ順に案内した。正面の床柱の前には大石正文が猫背のまゝ顎を突き出した恰好で坐つた。その次は上町の醤油屋の主人だつた。正文と等位置の左手へかけては堂本が坐つて居り、大石練吉がその隣にゐた。二三人置いて庄谷の顔が見えた。その辺りが上座だつた。
 ざつと四十人近い客数であつた。その半ばあたりへ来ると、直造は一々前まで行くのを止めて、ふりかへつては「山下さん、お次へどうぞ」と云ふ風に名を呼びはじめた。だが、房一の所へはなかなか来なかつた。大部分の客が席に居並んだ頃になつて、房一は漸く自分を呼ぶ直造の稍しやがれた声を聞いた。
 膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべてゐた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つてゐるのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗《どんぐり》のやうに何かむくむくした男を見た。
 が、房一をよく知つてゐる者にとつてはその低い居場所がよけい注意をひくらしかつた。千光寺の住職は何気なく一座を見廻してゐるうち、思ひがけない所に房一を見つけ、ちよつと顔色を動かせた。それから、時折房一の視線を捕へて会釈《ゑしやく》しようとしたが、遠くて駄目だつた。庄谷は逸早く房一の席に気がついたらしい、が、その殆ど白味ばかりのやうな細い眼にちらりと微笑を浮べたきりだつた。
 何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついてゐた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつてゐた。
 間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃《いんぎん》な荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つてゐた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつてゐるが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞《ひだ》と同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音《こわね》の中にも響いた。
「お粗末ではござりまするが、どうぞごゆるりと」
 云ひ終ると、直造は叮重《ていちよう》に頭を下げた。
 来客の間にほつと寛《くつろ》いだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
「折角のところを、突然でまことに失礼でありますが」
 聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出てゐたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
 一座はしづまり返つてゐた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つてゐなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いてゐなければならぬとは!
 その直造の耳には、次のやうな言葉が響いて来た。
「本日は、私ごとき者までお招きに預りまして」
 房一はその「ごとき」といふ箇所にわざと力を入れながら、つゞいて、今夜の席に招かれたことを謝し、甚だ不本意ではあるが止むを得ぬ所用があるので途中から退席させてもらひたい、と述べた。
「もはやお膳も据ゑていたゞきましたし、これで十分頂戴いたしたも同然でありますから、甚だ失礼ながらお先きに御免を蒙ります」
 言葉つきは叮重だつたし、云つたことも何ら不自然ではなかつた。だが、その挑《いど》むやうな強い眼の色と全身に滲み出た一種圧迫的な怒気とはその表面の叮重さを明かに裏切つてゐた。効果は覿面《てきめん》だつた。
「はア」
 と、云つたまゝ直造は首を落して聞き入つてゐた。房一が云ひかけた時、直造の老いてはゐるが練《ね》れた頭は即座にその意味を悟つた。そして、自分の手落ちだつたことを認めてゐた。が、この不意打は少からぬ打撃でもあつた。彼はこれまでの生涯に自分が主人役をつとめて来たこの家の中で、未だかつてこんな思ひがけない反撃を喰つたことはなかつた。いや、どこの家の集りでも見たことはない。すべては古いしきたり通りに、一定の型通りに行はれ、それが乱されたことはなかつた。それは彼の身体にすつかり滲みこんでゐるあの雅致のあるゆつくりとした段取りのやうに、永い間に築かれ自然と支へ合ひ、ゆるぎのない目立たぬ日常の確信といつた風なものになつてゐた、――それがこの瞬間に思ひがけない形で動揺するのを覚えた。
「さやうでござりますか」
 直造は、然し、突嗟《とつさ》のうちに考へをまとめることができなかつた。彼はあの慇懃な荘重さをとりもどしてゐた。が、何となく悄《しを》れた所のあ
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