あつてもなくても、何となく用ありげな顔で方々に現れては話しこむ。そして、他愛のない噂話や雑談の中から自分の儲け口を見つけるのに妙を得てゐた。彼はあらゆることに、例へばどの田は段あたり何斗米がとれるかも知つてゐたし、河原町近在の山もどこからどこまでが何某の所有であるかも、時にはあらかたの立木の数ものみこんでゐたし、或る家では地所を拡げるために境界の石をこつそり一尺ほど外に置き換へたのだといふ類《たぐい》にいたるまで通暁してゐた。おまけに口達者だつた。したがつて多少煩さがられながらも、用のある時にはたしかに重宝な人物にちがひなかつた。恐らく彼自身もそのことはわきまへてゐたのだらう。何となく小莫迦にされながらも、今日ではどこの家へも自由に出入りできる特権のやうなものを自然と獲《か》ち得てゐた。同時にそれは一種鹿爪らしい表情となつて現れてゐた。
「何かの、いつたいあの山を掘つても引合ふのかな」
「さあね、そいつは今のところ何とも判らんでせうな。何しろこの前に手をつけたのは十年前だつたでせうかね、その時の礦石のかけらも残つちやゐませんよ」
「坑には入つてみたんかね。あすこはもう何年も入つた人がないちふことだが」
「入りましたよ。それがねえ、穴の中は苔が生えたやうな、水たまりもあつてね、やつとこさ奥まで行つてみたんだが、まはりの土はぼろぼろ落ちるし、何のことはない洞穴でさあね、――それでも連中はあつちこつち突ついてみてたがね、含有量はまあもつと試掘してみなけりや判らんさうですよ」
その「含有量」といふ言葉は富田が昨日聞き覚えたばかりのものだつた。
「や、皆さんどうも遅くなりまして――」
この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。
坐りなり、あたりを見まはした。眉の強い、眼の切れ目な、短いつまみ立てたやうな鼻髭を生やした今泉の稍冷い顔つきは、それだけで云ふなら確かに整つた立派な顔だつた。苦味走《にがみばし》つて男らしかつた。たゞ何か大切なものが欠けてゐた。彼は身近かに、皆から稍《やゝ》はなれて手持無沙汰にぽつねんと坐つてゐる房一を見つけた。
「や、これは。高間さんですか。お久しぶりで」――「お忙しいですか」
「いや別に忙しいこともありませんですよ」
房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。
「はあ、はあ」
急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。
向ふの方には別の一かたまりがあつて、その中には堂本もゐた。彼はさつきからそこに坐つたまゝ一言も口をきかないで、誰かが挨拶する度に慌てたやうにお辞儀を返してゐた。その隣りには大石練吉が近眼鏡の下で眼をぱちぱちさせながら、今夜もその色白な頬に上気したやうな紅味を浮かべて坐つてゐた。彼は坐つたまゝ絶えず首を伸して部屋中を眺めまはしてゐた。入つて来る人を彼は誰よりも先きに見つけた。そして、簡単にひよいと頭を下げてうなづいて見せてゐた。
房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「や、先日はどうも――」
練吉は房一の腕にさはつて、囁くやうに云つた。近眼鏡の下から切れの長い練吉の眼が一種こつそりした親密な表情をのぞかせてゐた。突嗟《とつさ》に房一はその囁くやうな調子や眼つきから、練吉が何のことを云つてゐるのかを了解した。
「いや、どうも」
房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでゐるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
練吉が元の座へ帰つてゆくと、房一はぽつんと一人とり残された。来客達の大半とはすでに顔見知りだつたにかゝはらず、今夜の席では房一は唯一の新顔だつた。
「大石の御老人は見えんやうだな」
と、房一の近くで云ふ声が聞えた。今泉らしかつた。つづいて同じ声が
「相沢さんも見えないな」
「誰? 相沢の知吉さんかね」
さう云つたのは庄谷だつた。房一がその方をふり向いた時、庄谷の白味がちな小さな眼が意味ありげに更に細くなつたところだつた。そのまゝにやりとして、
「あの人は来まいて」
「どうして? 血はつゞいてゐなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか」
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
「へえ、どういふわけでせう」
一瞬、まはりの者は皆黙つてゐた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めてゐた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。
「あれは本当ですかね、相沢さんが訴訟を起したと云ふのは?」
声をひそめて、富田が訊いた。
「本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ」
「相手は誰です? こゝの御隠居ですかい」
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
「だつて、喜作さんはこの土地にはゐないでせう」
「居なくたつて訴訟はいくらでもできらあね」
その時、彼等は近くに坐つてゐる房一に気づいた。話に出てゐる鍵屋の分家とは、まさに房一の借りてゐる家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。
「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」
富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて
「あなたは御存知ないんですかね」
「どういふことです、わたしにはさつぱり――」
房一はさつきから自然と聞いてはゐたが、事は初耳だつた。
「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」
富田は庄谷の方に向きなほつた。
「さあね、もうかれこれ二十年にもなるだらうかね」
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」
「さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしてゐたさうだな。だが娘がくつついてゐるから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ」
「どうして又今まで黙つてゐたのかね」
「相沢の先代が生きてゐる間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう」
「それあ、しかし、何だな、知吉さんも今まで不服だつたのをこらへてゐたんだな、何分かの理窟はあるわけだね」
「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つてゐたさうぢやありませんか」
「理窟があるやうな無いやうな話でね。こゝの隠居は相手にならなかつたから、たうとう訴訟といふ所まで来たんだらうが、何しろ相沢の先代とこゝの隠居とは兄弟だしね、――どんな理窟があるにしてもあまり賞めた事ぢやないね」
「知吉さんはこれまで散々踏みつけられて来たんだから、自分が戸主になつてみるとこれまでの腹いせといふ気もあるんでせうな」
「まあ、それあ――」
その時、千光寺の住職がひよろ長い姿を現はした。彼はたつた今さつき剃《そ》つたばかりのやうな青いつるつるな頭をしてゐた。今夜の主役だといふ意識がさうさせたのだらう、もつともらしい儀式ぶつた表情のまゝ、彼は集つた人達には目もくれずにまつすぐに仏壇の前に進んだ。だが、そのひきしめたつもりの口もとにはあの真白い偉大な反《そ》つ歯《ぱ》がのぞいてゐた。
読経がはじまつた。皆話をやめてその方を向いて坐り直した。
それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れてゐた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしてゐた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めてゐたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできてゐるのを発見し、しきりとそれを見つめてゐた。
あの坊主は前からあんな頭をしてゐたのかしらん。――さう云へば、子供の時分いつしよに遊んでゐるとき見たやうに思つた。――練吉はそんなことを考へてゐた。
今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つてゐる庄谷の背中を見つめてゐた。するとその肩に一本の糸屑がくつついてゐるのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。
房一は庄谷の後で時々目を開けてゐたが、間もなくすつかりつむつてしまつた。ゆるく尻をひつぱる読経の声、時々ふいに高くなり、途切れ、又ゆるやかにつゞくその倦《だ》るい音は、それにつれて聞いてゐる者に次々ととりとめもない考へを追ひかけさせ、立ちどまらせ、又流れさせた。
――「やあ、おいでなさい。わたし相沢です」
はじめて往診に行つたときの相沢の濁《だ》み声が耳に蘇《よみがへ》つて来た。それから、あの粗末な黒い上着と、カーキ色の目立つ乗馬ズボンと、又あの鼠を思はせるやうな黒味の拡がつた、ちつとも目瞬《またゝ》きをしないふしぎな眼玉とが、房一のつむつた瞼の中に現れて来た。
房一はあれから相沢の息子を診《み》に五六度行つた。殆どその度ごとに会つてゐるので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つてゐるつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知してゐた。
知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にゐた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質《むかしかたぎ》の一克《いつこく》な性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和《おとな》しさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見には挺《てこ》でも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つてゐたが、あいはそこへ奔《はし》つた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へてゐたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて
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