大石練吉は日盛りの往診からもどつて来ると、暑さのために不機嫌さうな顔になりながら、自転車を手荒らに立てかけ、とりつけた鞄もそのまゝにして、のつそりと診察所から上つた。
 入るなり、
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
 と、大声で訊いた。
 出て来たのは紅い手をした看護婦だつた。台所の方へ行つて何やらまごまごし、しばらく立つてから、
「はい、あの、切れて居りますが」
 と、おづおづ答へた。
「なに、切れてるつて?」
 見る見る癇癪《かんしやく》を起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。
 彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはゐないのである。
「あゝ、さうだつた。なあんだ!」
 さう云ひたげに、練吉は近眼鏡の奥で切れの長い目をぱちぱちさせ、ちよつとあたりを見まはした。一種気楽げな表情がたちまちその顔に浮かんだ。
 それは何となく不思議なことだつた。家にゐたところで別に賑かに喋《しやべ》り立てるわけでもなし、むしろ年中窮屈さうに不服ありげに無口で固い顔をしてゐる茂子が、今この家にゐないと知つただけで、こんなに伸び伸びし、自分がさう思ふだけでなく、そ
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