の峠に達してみると、更に前方に見えて来たいくつかの峠が彼の新しい野心を惹きはじめてゐた。その野心の目的といふものも、彼が東京の市内で散見することのあつた大病院の院長とか、或ひは病理学研究の名声赫々たる博士とか、さういふ粗雑なものにすぎなかつたが、それは名声が彼にとつて魅力があり、院長の威厳が彼に好もしく思はれたのではなく何かしら内部に溢れる野気が単にさういふ粗雑な形の中にその吐け口を見つけようとしたのであつた。
房一はこれまでにも河原町に帰つて一医者としての生涯を始めようと考へないでもなかつたが、老父の道平をはじめ伯父や身内の者すべてがさう希望してゐると知つたときに、唯々《ゐゝ》としてその云ふところにしたがふ気になつた。
房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つてゐた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つてゐる自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじてゐる兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより
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