廻ると、鼻の先に真新しい土をくつつけてまた房一の傍にもどつて来た。
前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭《せば》まつて来た山合ひにぐつととつついてゐるのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでゐた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気《うんき》のある靄《もや》に包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。
高間医院では房一の帰りが遅いので盛子が一人で気を揉んでゐた。ほかでもない、房一はその日の夕方から鍵屋の法要《ほふえう》に案内を受けてゐたのである。
これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつてゐたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいてゐる家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味してゐた。恐らく、これをきつかけに
前へ
次へ
全281ページ中115ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング