の房一の記憶を一番大切にしてゐて、それをつい昨日のことのやうに憶ひ出してゐたのは恐らくこの男だけだつたらう。それにもかゝはらず、房一は世間的な仕事に気をとられてゐて、彼のことを失念してゐた。徳次は甚だ心外であつた。だが、その臆病さのために自分から房一の前に姿を現すやうなことはしなかつた。彼はその不満を汚い家の中で垢だらけの子供達を肩につかまらせたまゝ、自分の妻に話して聞かせた。それだけだつた。他の人の前ではちつとも洩らしはしなかつた。若し口に出せば、大声をあげて町中を走り、房一の家に荒ばれこみたくなるにちがひない、と自分でも思つてゐた。それほど彼の心外さは深かつたのである。
だが、今、房一は向ふから彼を認め、挨拶しようとしてゐるのだつた。徳次は瞬間眼をそむけたが、又慌ててふり向いた。そして、その時川向ふでは房一が急いで自転車から降り立ち、口に手をあてて呼ぶのを見た。瀬音のために何だかよく聞えなかつた。だが、その姿は紛れもない房一、今までもう身分がちがふのだから仕方がないと半ばあきらめながら半ば怒りを感じてゐた一方、どこかに忘れられず残つてゐた幼友達の温味、――まさにそれだつた。
徳
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