を思つたのか彼は写真に残つてゐる先代のやうに髯をのばしはじめた。最初のうちはもじやもじやしたごま塩の汚たならしい色で、皆から可笑《をか》しがられてばかりゐたが、のびるにしたがつて白味を加へ、似合つて来、そのあることがあたり前にさへなつてゐた。殊に病中には、彼がもどかしがつて口をあくあくさせる度に、髯のはしがびりびりふるへ、はね返り、遠くにゐても彼が何か云ひたがつてゐることが判つたくらゐで、したがつて彼の身にもついてゐれば、はたの者の目にもすつかり馴染まれてゐたのである。
それを今又さつぱりとやつてしまつたのだ。髯のなくなつた彼の顔は、ずつと前のそれに逆戻りはしないで、病後の面変りも手つだつて、その円つこい縮《ちゞ》かんだ輪郭が何かしら小さく、愛くるしげに見えた。
「あら!」
と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。
「どうしませう、ほんとうに! すつかり落しておしまひになつたんですのね。――どうも、さつきから様子がちがふと思つてゐたんですが、道理で!――さうでしたわねえ、お髯がなくなりましたわねえ」
盛子は笑ふまいとしながら、こらへかねて真紅になり、そこにうつ伏しになつてしまつた。道平も釣りこまれて笑つた。だが、それは心持ひきつゝた痕跡の中に押しこまれたみたいになつた。彼が髯を落したのはそんなに悪戯気でやつたのではなかつたので、盛子の大げさな可笑しがりやうがいくらか気にさはつたのだ。で、彼の顔はすぐに老人らしい克明な生真面目さをとりもどし、房一の方を向いて、ゆつくり切り出した。
「それから、あれだが、今までよう訊かなんだが、――あれは、どうしたもんかの、大石さんの方は?」
対診に来てくれた練吉のことを気にかけてゐるのだつた。
「お礼ですか」
「さうぢや」
「あれなら、私の方からいゝやうにしときます」
「さうかの。だが、さう云うても――」
と、道平は明かに盛子に気兼ねをしてゐるらしかつた。
「いや、あれは私が勝手に頼んで来てもらつたんですからな、御心配はいりませんよ」
「さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか」
云ひながら、道平はこれ又大いに気にかけてゐたことがあつさり片づけられてしまつたので、いくらか不服でもあり、手持無沙汰でもあるといつた様子だつた。
が、その時、彼はすぐ傍でさつきから盛子がひろげたり畳んだりしてゐる大きな紅い紙の袋みたいなものに目をとめた。
「何かの、それは」
「これですか――?」
と云つたまゝ、盛子は房一の顔を見てくすりとした。そして、ばさばさ音をたてて大きくひろげてみせた。それは神官の着るやうな袍《はう》だの指貫《さしぬき》に模したものだつた。おまけに、ボール紙で造つた黒い冠、笏《しやく》の形をした板切れ、同じく木製の珍妙な沓《くつ》だのいふ品々が揃つてゐた。
「これを御大典のお祝ひ日に着るんですつて」
と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。
「ほう、ほんに! みんなある」
その一揃ひの紙衣裳を見て、道平はまじめに感心した。
「おぢいさん。これを主人《うち》が着るんですよ。主人ばかりぢやない、町の戸主はみんな! それこそ、代人はできないんださうですよ。そして、御神輿《おみこし》の後について町中を行列して歩くんださうですよ。――まあ誰が考へ出したんでせう! さぞいゝ恰好でせう! ねえ」
房一は擽《くすぐ》つたさうな顔をしてゐた。
「さうか。うちの方では山車《だし》を引いて出るさうだ。それから、みんな紋付に羽織袴といふことだの」
「それあ、あつさりしていゝですな。こつちでは山車が生憎《あいにく》こはれて、満足なのは一つしかないんでね。あんまり淋しいからと云ふんで、こんな思ひつきをやらかしたらしいですがね」
京都で行はれる御即位の大典はもう四五日後に迫つてゐたのだつた。その日、陛下は黄櫨染《はぜぞめ》の御袍を召されて紫辰殿《ししいでん》に出御され、大隈首相は衣冠束帯で階前に進み出で万歳をとなへ、全国一斉に称和する予定で、その奉祝の催しでは河原町の各区内がそれぞれ知慧をしぼつてゐたのである。
そこへは、案内も乞はずに、小谷吾郎が気がるに裏口から入つて来た。
「やあ、来てますね」
と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像してゐたよりもはるかに珍妙な仮装で
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