な四囲の空気と調子を合せることを覚えこんだのである。もともと彼の野心といふものには格別はつきりした目標があつたのではない。漠然とした、無意識のうちに魂の孕《はら》む夢といつた風なものだつた。が、今やその魂はどうにか方向を見つけ、その形づくらうと欲してゐるものを予感し、穏かに、着実になつた、といふやうに見えた。

「あら! いらつしやいませ。ようこそ。――ほんとうに、よくまあ!」
 さつきから、日のあたる縁側近くに縫物を持ち出してゐた盛子は、あんまりびつくりしたのと身体が重いのとで、立上ることを忘れてかう感嘆詞を連発しながら、あの語尾の跳ね上りを少し響かせながら、庭先に現れた人影に向つて目を瞠《みは》つてゐた。
 そこには、ついこなひだまで足ならしのよちよち歩きをしてゐた筈の道平が、本家の孫息子につき添はれてではあつたが、ちやんと一人立ちになつて、ゆつくりゆつくり足を踏み出してゐた。病後で彼の顔は大分変つてゐた。その左側の半分には、まだ心持ひきつゝたやうな痕跡がのこつて、したがつて、そつち側だけの眼と唇がいくらか引つ張つたやうになつてゐる。だが、その不自由な表情の中には何か懸命な、かうして歩いて来たことを見てもらへるといふ悦びが明かに漲《みなぎ》つてゐた。
「もうそんなにおよろしいんですの? すつかり御無沙汰してゐました。ほんとうに! よくおいでになれましたわねえ」
 道平が口をうごかせるまでには随分手まどつた。
「あんまり、ぢつとしとつてもな、身体が生《な》まに、なるもんぢやから」
 もともと口下手ではあつたが、まだ舌がもつれる風で、一口ごとに息をついて云つた。

 彼は先だつて房一から全快祝ひに贈られたセルの上下を、仕立下したばかりのものを着こんでゐた。夏からふた月あまり寝こんだとは云へ、日焼けの浸みこんだ黒い皮膚の色は容易にとれないと見えて、今もそれが真新しいセルの、明い地色と際立つた対照をなしてゐた。
 孫息子に手つだはれて、そろそろと縁側に腰を下すと、道平は何か云ひたげに盛子の顔を見まもつた。そして思ふことがうまく口に出ないときにやる、一心な、どこか苛々《いらいら》した目つきになりながら、殆ど癇癪を起しさうになりながら、やつと云つた。
「あんたも、おめでたいさうで」
 彼はそれを云ひに来たのだつた。
 盛子の妊娠を耳にしたのはまだ病気前のことであつた。だが、間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとして焦《あせ》つた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつてゐた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはゐたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつてゐた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしてゐるかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つてゐたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つてゐた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけてゐたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へてゐたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた! 今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。
 すると、間もなく診察室の方から急ぎ足で出て来た房一は、道平を見るなり、
「ほゝう!」
 と云つたまゝ、もの珍らしげに、しばらく眺めてゐた。それから、相手にその意味が判るやうに微笑をし、目くばせをしながら、
「だいぶ、様子が変りましたな」
 と、父親の顎のあたりに又目をつけた。
「おう、これか」
 道平は顎髯を剃り落してしまつてゐた。
 昨年の冬あたりから、何
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