がら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでゐた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。
「それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ」
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
男はうむを云はせなかつた。
「よし、それでは預つとかう」
房一はきつぱり云つた。男は、これは話が判る、といふやうな顔をした。それに押つかぶせるやうに、
「たゞし、預かるだけだよ。この分が残つてゐる間はいくら後から来ても貰はんよ。いゝかね」
男はじろじろと房一を見てゐた。
「それは、せんせい[#「せんせい」に傍点]のお考へに任せますわ。――ですが、今日のことは、ほんの内輪の間違ひやさかい、そのことは含んどいてもらはんと困ります。よろしいな。――内輪のことや」
男は語尾に力を入れて、房一の眼の中をのぞきこんだ。
房一はその時診察用の椅子に腰を下して、ゆつくりと煙草をふかしながら、何気ない風で男の様子に目をつけてゐた。彼は男の要求する意味を悟つた。たゞ治療をしろ、他のことは見て見ぬ振りをしてくれ、まして他言は無用だ、といふ意味だつた。
「よからう」
男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持してゐた。
「よろしい。承知した」
男は一歩下つた。
「大きに。ありがたうござんす。よろしう頼んます」
さう云ふと、男は入口に待つてゐた印袢纏の背の高い男とつれ立つて、高間医院を出て行つた。
房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めてゐた。
それは六月も末のかつと輝いた午《ひる》近い一つ時だつた。いや、正午はもう廻つてゐるかもしれない。畑地には道路のすぐ傍にあまり大きくない柿の木がぽつんと一本だけ立つてゐた。その葉はまだ新芽の柔かさを保つてゐた。日にきらきらしてゐる。さうやつてひとりでに自分を磨いてゐるみたいだつた。誰も表の道路を通らなかつた。
何となく身体が倦《だ》るかつた。それにちがひはない、今日は珍しく朝早くから川につききりで、おまけに呼びもどされるとすぐ今の騒ぎだつた。埃で黄くなつた頭髪、泥と血の塊り、男の不安げな眼、それからあのいくらか仁義を切るやうな半シャツの甥の身構へだの、それらがもう一度頭の中に蘇《よみがへ》り、一列になつて通つて行つた。
房一は苦笑した。とにかく珍客にはちがひなかつた。そして、たつた今さつきまで房一は彼等のお見舞ひでわれ知らず興奮し、緊張し、それからあの半シャツの男と言葉の上でなく、眼と眼で、構へと構へでやりとりした、それが突風の去つた後のやうな軽いあつけなさを残してゐた。
が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでゐることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。
「あれ[#「あれ」に傍点]らしいのよ」
さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しな[#「しな」に傍点]のある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つてゐた。
房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつてゐるのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしてゐる、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つてゐた。が、今彼の感知してゐるものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしてゐるが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしてゐる、温い、柔い、――
房一は椅子から立ち上つた。
膿盆だの鋏、脱脂綿の袋などがまだ散らかつたまゝになつてゐるのを片づけはじめた。
ふと気づくと、玄関に人が立つてゐた、半シャツの男だ。瞬間、又来たな、と思つた。
が、それは徳次であつた。
きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして
「もう帰つたんかね」
「――?」
「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」
「うん、もうさつき帰つたよ」
「さうか、惜しかつたな」
徳次は足を踏ん張つて立ち、まだそこら中を見まはし
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