てゐた。房一はちらりとその顔を見たが、黙つて片づけてゐた。
「なあ、先生」
「うん?」
「怪我人ができたのかね」
「さうだ。大したことはない」
「ふうむ」
徳次はいつのまにか腕組みをしてゐた。あのあてずつぽうな、そゝつかしい、力《りき》んだ様子が現れてゐた。
房一はそれに目をとめてゐたが、急に強い口調で、
「君に云つとくが、何んだぜ、小倉組の者なんかにかゝり合ひをつけちやいかんぜ」
徳次は慌てた。
「何かね、わしがどうしたといふんかね」
「いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ」
「いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ」
「あいつらと来たら、すぐこれ! だからね」
房一は刃物で突く恰好をしてみせた。
徳次は一種くさめをする前のやうな、煙《けむ》たげな表情になりながらわき見をしたり、房一を眺めたり、どぎまぎして答へた。
「いや、――わしはそんなこたあ嫌ひだ」
四
八月も末だつた。十日あまり思ひがけない涼しさがつゞいたので、このまゝ九月に入るのかと思はれたが、暑さは又ぶり返して、がまんがならないほどだつた。
大石練吉は日盛りの往診からもどつて来ると、暑さのために不機嫌さうな顔になりながら、自転車を手荒らに立てかけ、とりつけた鞄もそのまゝにして、のつそりと診察所から上つた。
入るなり、
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
と、大声で訊いた。
出て来たのは紅い手をした看護婦だつた。台所の方へ行つて何やらまごまごし、しばらく立つてから、
「はい、あの、切れて居りますが」
と、おづおづ答へた。
「なに、切れてるつて?」
見る見る癇癪《かんしやく》を起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。
彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはゐないのである。
「あゝ、さうだつた。なあんだ!」
さう云ひたげに、練吉は近眼鏡の奥で切れの長い目をぱちぱちさせ、ちよつとあたりを見まはした。一種気楽げな表情がたちまちその顔に浮かんだ。
それは何となく不思議なことだつた。家にゐたところで別に賑かに喋《しやべ》り立てるわけでもなし、むしろ年中窮屈さうに不服ありげに無口で固い顔をしてゐる茂子が、今この家にゐないと知つただけで、こんなに伸び伸びし、自分がさう思ふだけでなく、そこらにある家具までが何となく気楽さうに見えるとは!
それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついてゐたのである。もう慣れつこになつてゐる。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。
「坊は?」
と訊くと、遊び友達と河へ行つたといふ返事であつた。
母家の方には父親の正文がゐるのだらうが、ひる寝でもしてゐるのか物音がなかつた。練吉は井戸端へ出て身体を拭くと、居間になつてゐる診察所の二階へ上つて来た。その途中で、看護婦に自転車の鞄を外して、中にある処方の薬をこしらへて置けと云ひつけた。そして、さつき配達されたばかりの前日の新聞をつかむと、腹ばひになつて読みはじめた。
看護婦がそつと上つて来た。
「あのう、笹井へ往診がございますが」
「笹井?――御隠居さんが云つたのかい」
それは正文にかゝりつけの患家だつた。
「はい、若先生に代りに行つてもらへとおつしやいました」
練吉は永い間黙つてゐた。それから、いかにもいやいやな調子で、
「うん、行くよ。――だが、夕方でいゝだらう」
云ふなり、ごろりと仰向けにひつくり返へると、新聞を持ち上げ、眼をぱちぱちさせ、やがてうとうとしはじめた。すると、面長な、普通よりもよほど大きい練吉の寝顔には、年に似合はない駄々児のやうな表情が浮んだ。
その塗りの色の落ちついた外まはりの築地塀、よく拭きこまれた廊下、塵一つ落ちてゐない部屋々々、渋い雅致のある床の置物だの掛軸、これらすべての上に現れてゐるどこか神経質でさへあるよい趣味と堅固さ――さういふ外見にかかはらず、大石医院では年来をかしなごたごたが繰り返されてゐた。
結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返してゐる茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出てゐるので、練吉の方は吾不関焉《われくわんせずえん》とい
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