であらう。だが、彼はさういふ小むつかしいことは面倒臭かつたし、又下手だつた。彼はたゞ感じた。そして暖昧な身振りをしただけだつた。
遠くの方で誰かが呼んでゐた。
河原の端にある高い築堤の上で、白い割烹着《かつぽうぎ》を着た女が、口に手をあてて何か叫んでゐた。
それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしてゐた。
聞えないといふしるしに、房一は手を振つて見せた。それが盛子にも解りにくいらしく、しばらくためらひ気味に立つてゐたが、やがて河原へ下る段を降りはじめた。
「患者さんですよう」
近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にゐる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括《くゝ》られてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれてゐた。
「うん、今帰るところだ」
と房一が答へた。
「獲《と》れましたか」
盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。
「いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ」
「さうですか。それは――」
心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的な確《し》つかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。
「あら、ほんとうに沢山とれたんですね」
房一の魚籠《びく》をのぞいて、盛子はびつくりしたやうに叫んだ。
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。
「いゝ恰好で!」
盛子は笑ひながら顔を紅らめた。
「何んの。面倒だからこのまゝ行かう」
房一はズボン下を円めて魚寵といつしよにぶら下げながら、丸出しの肥つた足でぴよいぴよい河原石の上を先に立つて歩いた。
ごろごろする石の上を下駄ばきでは歩きにくかつた。房一は川から上つたまゝの濡草履をはいてゐるので速い。盛子は空《か》らになつた追鮎箱を手にして後からついて行つた。
「ねえ!」
築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。
「うん」
生返事をしてそのまゝ登つて行く。
が、登り切つた所で、ふりかへつて盛子を待つた。そして、何となく様子のちがつたゆつくりさで登つて来る盛子の、上《う》は目になつた、意味ありげに笑つてゐる顔を見た。
「ねえ」
盛子は妊娠してゐた。
もう一月あまり前から気づいてゐたのだが、はつきりしなかつた。云はうか云ふまいかと迷つてゐた。たつた今、大きな麦藁帽子の縁で半ば隠されてはゐるが、むくれ上つた幅の広い肩がぴよいぴよい目の前を歩いてゆくのを見てゐるうち、突然云ひやうのない親しさの感覚に捕へられた。打ち明けてみたくなつた。何にも如らないで、こんなに変な風に脚を丸出しにして、私にはおかまひなしに先を歩いてゐる!
並んで立つと、いきなり
「わたし、あれ[#「あれ」に傍点]らしいのよ」
云ひながら、ぽんと軽く下腹をたゝいてみせた。そして、微笑した、悪戯《いたづら》つ子のやうな目つきで、ぢつと房一の顔をのぞきこんだ。それは驚くほど巧みな打明けだつた。
房一は面喰つて、ぽかんと口を開けた。
「いつから――?」
やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いてゐる生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知してゐる筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いてゐるのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つてゐる盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑してゐる切れの長い眼つき、悪戯《いたづら》つぽさと羞《はにか》みとのまざり合つてゐる様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。
「ふむ、さうか」
感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。
三
裏口から家の中へ入らうとした時、房一はそこの小路つづきの先きの方に彼の帰りを待ち構へてゐたらしい様子で突立つたまゝこちらを眺めてゐる二人の男に気づいた。
二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏《しるしばんてん》を着てゐた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見
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