つい二三ヶ月前からはじまつたのである。
「おーい。渡つてもいゝかね」
 小谷が対岸から流れを指しながら叫んでゐた。房一の竿の前を渡渉《とせふ》するので承諾を求めたのだ。
 房一は大きくうなづいて見せた。もう獲物は大分前からとまつてゐた。

     二

 日は高く上つて、噎《む》せるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠《びく》を中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
「やつぱり徳さんが多いね」
 小谷は疳高い声で云つた。
「それあ、あんた」
 云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦《こばか》にした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つてゐるので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。
 その時、又あの鈍い重量のある音が下流の方からどよめいて来た。それは前のよりもはるかに大きく、つゞけさまだつた。
「何だらう?」
 小谷は不安げに呟いた。
「ハッパさね」
 と、ちやうど追鮎箱のところへ立つて行きかけた徳次は、事もなげに云つた。彼はその水際のところでいきなりシャツをはぎとると、バシヤバシヤツと水洗ひをして、それを日に焼けた石の上に乾した。そのまゝ房一と小谷の前に来ると、美事な半裸体のまゝ腕組みをして突立つた。一種単純な、力づくといつた様子が現れてゐた。
「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」
「さうだつてねえ」
 小谷は仰山《ぎやうさん》な表情になつた。
「うん、おれもこないだ通り合せたんだが、前を山支度の娘が寵をかついで歩いてゐるんだな、するとやつぱり大声でからかつとつたよ」
 房一は苦が笑ひをした。
「いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう」
「困つたもんだね」
「何しろ、わや苦茶だ」
 徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
「だいいち、あすこの小倉組の親方といふのがね、うちの店へもたまに買物に来るんだが、鬼倉といふ綽名がある位でね、見たところ痩せつぽちのさう強さうもない奴なんだけどね、すごいんださうだ。――こないだも郵便局で見た人があるんださうだが、配下の者が何かしつこく不服を云つたら、いきなりかう、二本の指でね――」
 と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
「ズブリと相手の眼の中へさしこんでしまつたさうでね。――親方すみません、とあやまつたと云ふんだが、どうもね、――何しろ他の人の見てる前でやるんだから、たまつたもんぢやない」
「へえ。――ズブツとね」
 徳次は指で真似をした。
「そんなことができるもんかねえ」
 半ば感心し、半ば疑はしさうに、彼は指を自分の眼に向けてみた。
「眼が潰《つぶ》れちまふ――ねえ、先生」
「ふうん、潰れるだらうな」
 房一は笑つてゐた。
「鬼倉といふのは女を二人置いとるさうぢやないか」
「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和《おとな》しくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在《ざい》の者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄《こづか》みたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」
「ふうん。ひどい奴だねえ」
 小谷の話で、徳次はすつかり興奮したらしかつた。そのきよろりとした眼はすつかり開けひろげられ、一種|上《う》はずつた色が動いてゐた。何となく落ちつかない様子で上半身をぐらりとさせ、無意識に片腕を振り降した。そのはずみにひよろ長く生えた雑草に手を伸して引き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り、それを口にくはへた。
 その粗暴な外見とは反対に、徳次はさういふ血生臭《ちなまぐさ》いことが嫌ひだつた。そして、人並外れた敏感さを示すのであつた。今もそれで、彼はいかにも心外げな様子を、その無意識な仕草の中に現してゐた。
「わしは反対だ!」
 何となく、彼はさう云ひたげであつた。実際それは咽喉まで出かゝつてゐた。若し彼が理窟といふものを知つてゐたら、日常の些細《ささい》な事柄からでも尤もらしく意見をすぐに云ひ立てるあの「町の衆」のやうな頭があつたら、彼は勢ひこんで口にした
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