。だが、房一の所へはなかなか来なかつた。大部分の客が席に居並んだ頃になつて、房一は漸く自分を呼ぶ直造の稍しやがれた声を聞いた。
 膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべてゐた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つてゐるのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗《どんぐり》のやうに何かむくむくした男を見た。
 が、房一をよく知つてゐる者にとつてはその低い居場所がよけい注意をひくらしかつた。千光寺の住職は何気なく一座を見廻してゐるうち、思ひがけない所に房一を見つけ、ちよつと顔色を動かせた。それから、時折房一の視線を捕へて会釈《ゑしやく》しようとしたが、遠くて駄目だつた。庄谷は逸早く房一の席に気がついたらしい、が、その殆ど白味ばかりのやうな細い眼にちらりと微笑を浮べたきりだつた。
 何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついてゐた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつてゐた。
 間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃《いんぎん》な荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つてゐた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつてゐるが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞《ひだ》と同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音《こわね》の中にも響いた。
「お粗末ではござりまするが、どうぞごゆるりと」
 云ひ終ると、直造は叮重《ていちよう》に頭を下げた。
 来客の間にほつと寛《くつろ》いだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
「折角のところを、突然でまことに失礼でありますが」
 聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出てゐたので、声
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