の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
一座はしづまり返つてゐた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つてゐなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いてゐなければならぬとは!
その直造の耳には、次のやうな言葉が響いて来た。
「本日は、私ごとき者までお招きに預りまして」
房一はその「ごとき」といふ箇所にわざと力を入れながら、つゞいて、今夜の席に招かれたことを謝し、甚だ不本意ではあるが止むを得ぬ所用があるので途中から退席させてもらひたい、と述べた。
「もはやお膳も据ゑていたゞきましたし、これで十分頂戴いたしたも同然でありますから、甚だ失礼ながらお先きに御免を蒙ります」
言葉つきは叮重だつたし、云つたことも何ら不自然ではなかつた。だが、その挑《いど》むやうな強い眼の色と全身に滲み出た一種圧迫的な怒気とはその表面の叮重さを明かに裏切つてゐた。効果は覿面《てきめん》だつた。
「はア」
と、云つたまゝ直造は首を落して聞き入つてゐた。房一が云ひかけた時、直造の老いてはゐるが練《ね》れた頭は即座にその意味を悟つた。そして、自分の手落ちだつたことを認めてゐた。が、この不意打は少からぬ打撃でもあつた。彼はこれまでの生涯に自分が主人役をつとめて来たこの家の中で、未だかつてこんな思ひがけない反撃を喰つたことはなかつた。いや、どこの家の集りでも見たことはない。すべては古いしきたり通りに、一定の型通りに行はれ、それが乱されたことはなかつた。それは彼の身体にすつかり滲みこんでゐるあの雅致のあるゆつくりとした段取りのやうに、永い間に築かれ自然と支へ合ひ、ゆるぎのない目立たぬ日常の確信といつた風なものになつてゐた、――それがこの瞬間に思ひがけない形で動揺するのを覚えた。
「さやうでござりますか」
直造は、然し、突嗟《とつさ》のうちに考へをまとめることができなかつた。彼はあの慇懃な荘重さをとりもどしてゐた。が、何となく悄《しを》れた所のあ
前へ
次へ
全141ページ中75ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング