てゐなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか」
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
「へえ、どういふわけでせう」
一瞬、まはりの者は皆黙つてゐた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めてゐた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。
「あれは本当ですかね、相沢さんが訴訟を起したと云ふのは?」
声をひそめて、富田が訊いた。
「本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ」
「相手は誰です? こゝの御隠居ですかい」
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
「だつて、喜作さんはこの土地にはゐないでせう」
「居なくたつて訴訟はいくらでもできらあね」
その時、彼等は近くに坐つてゐる房一に気づいた。話に出てゐる鍵屋の分家とは、まさに房一の借りてゐる家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。
「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」
富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて
「あなたは御存知ないんですかね」
「どういふことです、わたしにはさつぱり――」
房一はさつきから自然と聞いてはゐたが、事は初耳だつた。
「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」
富田は庄谷の方に向きなほつた。
「さあね、もうかれこれ二十年にもなるだらうかね」
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」
「さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしてゐたさうだな。だが娘がくつついてゐるから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ」
「どうして又今まで黙つてゐたのかね」
「相沢の先代が生きてゐる間は知吉さんも手が出なかつたのさ
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