と、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。
向ふの方には別の一かたまりがあつて、その中には堂本もゐた。彼はさつきからそこに坐つたまゝ一言も口をきかないで、誰かが挨拶する度に慌てたやうにお辞儀を返してゐた。その隣りには大石練吉が近眼鏡の下で眼をぱちぱちさせながら、今夜もその色白な頬に上気したやうな紅味を浮かべて坐つてゐた。彼は坐つたまゝ絶えず首を伸して部屋中を眺めまはしてゐた。入つて来る人を彼は誰よりも先きに見つけた。そして、簡単にひよいと頭を下げてうなづいて見せてゐた。
房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「や、先日はどうも――」
練吉は房一の腕にさはつて、囁くやうに云つた。近眼鏡の下から切れの長い練吉の眼が一種こつそりした親密な表情をのぞかせてゐた。突嗟《とつさ》に房一はその囁くやうな調子や眼つきから、練吉が何のことを云つてゐるのかを了解した。
「いや、どうも」
房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでゐるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
練吉が元の座へ帰つてゆくと、房一はぽつんと一人とり残された。来客達の大半とはすでに顔見知りだつたにかゝはらず、今夜の席では房一は唯一の新顔だつた。
「大石の御老人は見えんやうだな」
と、房一の近くで云ふ声が聞えた。今泉らしかつた。つづいて同じ声が
「相沢さんも見えないな」
「誰? 相沢の知吉さんかね」
さう云つたのは庄谷だつた。房一がその方をふり向いた時、庄谷の白味がちな小さな眼が意味ありげに更に細くなつたところだつた。そのまゝにやりとして、
「あの人は来まいて」
「どうして? 血はつゞい
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