行く。
「ふむ。悧巧者だな、お前は」
房一は満足げに、かへつて来た犬の頭をかるくたゝいた。
このポインタアの雑種は、房一の往診にはどこへでもついて来た。いゝ路づれだつた。
「なあ、ジョン!」
と、房一はひとり言を云つた。
彼はもう少しで最も善い友人に向ふやうに考へごとを打ち明けるところだつた。
「おれはまだ一本立ちの医者といふわけにはいかない」
さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。
「さうだよ、ジョン」
それから、房一は歩きながら漠然とした沈思に落ちた。
――彼は医者である。免状もある。開業もした。患者もどうにかつきはじめた。職業的には立派に医者としての条件を具へつゝある。だが、河原町ではそんなことは通用しないのだ。何か別のものが、職業上の条件以上のものがここでは必要だつた。
患者の脈を見たり、舌を出させたり、背部を指で押し、打診し、薬を与へたりすること、そんなことは誰にだつて出来る。それからあの、開業医にはぜひとも必要だと云はれてゐる社交的な才能、お世辞を云つたり、砕けた気の置けない態度で抜かりなく会ふ人ごとの心をつかむ――「ふん」と、房一は独言のときに自然と目の前につくり上げるもう一人の自分に向つて冷笑してみせた。
「そんなこと位は造作もない。おれにとつては小指の先の芸当だ」
もつと別なものが、医者以上の或る者が必要だつた。房一は全身でそれを感じてゐた。たとへ彼が自分を高く持してゐたところで、河原町の人は彼を高間道平の息子としてより以上にはあまり見てゐないことは、房一にはよく判つてゐた。彼には免状もあるし、開業するのを誰もとめ立てすることはできなかつた。それだけの話だつた。それは町の人達がこれまで抱いて来た「お医者」の観念とはまるきり別だつた。だから、彼等はいまだに房一が往診鞄などを提げて歩いてゐるのにぶつかると、何となく半信半疑な面持を、時には曖昧なうすら笑ひを浮べたりする。
今それを思ひ浮べたとき、房一はふいに一種の怒気を感じた。それは疾《や》ましさのないはげしい敵意、何かしらぐつと相手を地面まで押しつぶしてしまひたいほどの、腹の底からこみ上げて来る得体のしれない力だつた。
犬が何を見つけたのか、その時さつと身を躍らして傍の草地にとびこんだ。二三度そこらをぐるぐると
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