きない悦ばしさだつた。
 思はず時間がたつてしまつた。房一は腰を上げた。前脚の上に顎をのせて長々と寝そべつてゐた犬は急に起き上つて身ぶるひした。徳次は、房一の往診の時間を大分遅らせたのにやつと気づいた。
「すまんでしたな、長話をして」
「いや、そのうち又ゆつくり話さう」
 さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えてゐた草を片手で※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでゐる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。
 房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにゐることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。
「先生!」
 それは初めて口に出す言葉だつた。
 房一はふりかへつた。
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
 房一は目顔で笑ひながら何度もうなづいた。やつと安心したやうに、徳次はしばらく見送つてゐた後で、大股に自分の船の所へもどつて行つた。

     三

 川沿ひから分れた路は段々になつた切株だらけの乾田に沿つて、次第上りに、両側はゆるやかな山合ひに切れこんでゐた。
 房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つてゐた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明《あかる》く、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。
「ジョン、そら! ウシ!」
 房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。
「ウシ! ウシ!」
 又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。
 犬は横へとびこんだ。だが、匂も嗅がず、草の中から頭を出して、房一の方をしきりと眺めながら同じ方向に歩いてゐる。
「はゝ、知つてゐるな。よし、よし何もゐやしない」
 だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら
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