廻ると、鼻の先に真新しい土をくつつけてまた房一の傍にもどつて来た。
 前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭《せば》まつて来た山合ひにぐつととつついてゐるのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでゐた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気《うんき》のある靄《もや》に包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。

 高間医院では房一の帰りが遅いので盛子が一人で気を揉んでゐた。ほかでもない、房一はその日の夕方から鍵屋の法要《ほふえう》に案内を受けてゐたのである。
 これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつてゐたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいてゐる家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味してゐた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いてゐた。
 盛子は房一からさういふことを聞かされてゐたので、往診に出掛ける時には彼女の方から念を押したほどだつた。房一は四時までには帰ると答へた。だが、もう五時過ぎだつた。そして、日が落ちてからの空気は、まるでわざと盛子の気を落ちつかせまいとするかのやうにどんどん暗くなり、冷えて行つた。
 広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。
 房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つてゐた。そして葉の落ちた無花果《いちじく》の木がその奇怪に
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