易して、出鱈目に歩き出そうとする。
と、何か足に引っ掛るものがある。人間だ。人間の子だ。うっかりしてるうちに、この少年は無断で私の足に掴まって、靴磨きを開始していたのだ。危く踏まれそうになるのも構わず、膝で追っかけて来て、すっかり磨かせてくれと言う。そしてもう片手では、代金を要求しているのだ。
こうなると、立ちどまることは許されない。停まるが早いか、くだんの靴磨き少年をはじめ、例の春画売り、絵葉書屋、煙草屋、両替屋、首飾屋、指輪屋、更紗《さらさ》屋、手相見、人相見のやからが翕然《きゅうぜん》と集合して来て、たちまち身動きが取れなくなる。街上をあるいていてさえ、どこからともなくいきなり駈けて来て、足下に平伏するやつがあると思うと、すでにそこで二つの真鍮のコップを叩いて「がら・がら・がら・ぶるるるる」を遣《や》り出している。蹴り飛ばして前進するわけにもゆかず、と言って、愚図々々立往生をしていて見給え。直ぐさま背後《うしろ》には物売りが人垣を作り、まえの商店からは腕力家の番頭が走り出て来て、有無を言わさず君を店内へ拉致するだろう。
ポウト・サイドは、都会と呼ぶべくあまりに統一を欠いている。それは、欧羅巴《ヨーロッパ》でもなし、亜細亜《アジア》でもなし、そうかといってあふりかでもない。言わば、この三つの大陸を結ぶ運河の口の共同バザアなのだ。白色と有色と、二つの文明のどちらから見ても堰《せき》に当っている。だから、まるで蛇籠のように、両系統の文化の流れの汚物ばかりが引っかかってポウト・サイドはこんなにもこの強烈な日光に臭く蒸れているのだ。
これは、商店だけで出来ている町なのかしら。住宅というものが眼に付かない。
安宝石の店の猶太《ユダヤ》人の鼻、菓子屋の女のよごれたエプロン、仏蘭西《フランス》語の本屋の窓に出ている裸体写真、東洋煙草店、大道でメロンの切売り、果物屋の蠅《はえ》、自動車庫の油の小川、塵埃《ごみ》だらけの土産物店の硝子《ガラス》箱、その中の銅製花瓶、象形文字の敷物、ダマスカス鉄の小武器、すふぃんくす形の卓灯《スタンド》、金箔塗りの装飾網、埃及柱《オベリスク》を象《かた》どった鉛筆、その他考え得られるすべてのナンセンスが、憧憬の東洋の夢として売りに出ている――BRAVO!
それにしても、全市民が家を空《から》に、街頭に伏兵して私たちを待ち構えていたに相違ない。
裸足《はだし》の少年靴みがき団を筆頭に、花売り娘、燐寸《マッチ》売子、いかさま賽《さい》の行商人、魔窟の客引き――そう言えば、このポウト・サイドには、土人区域の市場を抜けて回教堂《モスク》の裏へ出ると、白昼、数時間寄港の船員や旅行者を相手にする、陰惨な点で世界的に有名な一廓がある。波止場で馬車に乗ってただ黙って笑えば、馬車屋のほうで心得ていてそこへ案内するにきまってるほどの名所である。
では、レディ達をルウ・ドュ・コマルス街の珈琲《コーヒー》店の椅子へ一時預けにしておいて、出帆前にちょっとそのポウト・サイドの奥の奥と言うのを覗いて来るとしようか。
馬車で行こう。
がら・がら・がら・がら――焼けた敷石に車輪を鳴らして、僕らはいま、あらびっくで何々|街《シアリ》―― Sharieh ――と呼ばれる大通りを走らせている。
両側は、マホメッドの人種市だ。
店という店から人が飛び出して声をかける。
[#ここから2字下げ]
“Thisway monsieur colonel !”
“Here you are,anata―anata !”
[#ここで字下げ終わり]
片眼を残して顔半分|潰瘍《かいよう》し去った埃及《エジプト》人が、何かを売りつけようとして馬車を離れない。が、これでまだ動いてるからいいようなものの、もし、そこのキャフェの張出《タレス》にでも腰を下ろして、これでまあ行商人達を撃退してよかったなどとほっ[#「ほっ」に傍点]と安心していようものなら、たちまち蠅のような彼らに包囲されて靴磨きの子供は足へ取りつき、春画売りは恐るべき色眼を使って袖の陰から絵を覗かせ、宝石屋は君の鼻先へ首飾りをぶら下げ――そうして君は、君はとうとう癇癪を起して靴みがきの耳を引っ張り、春画売りを大声叱咤し、宝石屋を殴り飛ばして、あわれ逮捕の憂眼《うきめ》を見ることとなるであろう。
通行の群集はまるで世界中の敗残者から成り立っている。希臘《ギリシャ》人・東邦人《レヴァンテン》・あらぶ・埃及《エジプト》人・とるこ人・シリヤ人・回教を信じようとしない「西方から来た白い悪魔」たち・遊牧の貴族べずいん人。その黒くうるんだ大きな瞳・鼻筋から両眉のあいだへ円く巻いて渡した銅の針金・房付帽《タアブウシュ》・長袖下衣《キャフタン》・薄物・布頭巾《タアバン》・冠物附外衣《プルヌウス》・頬を線状に焼いた装飾・二の腕の桃の刺青《ほりもの》。
狭い東洋の門戸――PHARAOHの国。
Rue du Nil 街は、木造建築の銀行と煙草の屋台店――ここを下って、土人区へ這入る。
巴里《パリー》でいえば古着古物屋町《ラグ・ピッカアス・セクション》だ。半暗と湿気と悪臭の横町が、迷園のように縦横に走り、やけにひさし[#「ひさし」に傍点]の突き出た、原色塗りの低い建物がお互いに助《す》けあって並んで、誰かの言った「天刑病市ポウト・サイド」の感じを適切に裏書きしている。砂と埃・半裸体の街上の少年少女・トラホウムで赤い彼らの眼と・細い腕・病菌の沈澱してる路傍の黒い水溜り・胴だけで地べたに笑ってる乞食・骨と皮と耳ばかりの驢馬《ろば》・その脚の関節の真赤な傷口に群れている虻《あぶ》・邪悪そのもののようなキャフェの土間口・そこの軒下に立って葱《ねぎ》を噛《かじ》っているアラビヤ人の木炭売り・往来の中央で反芻《はんすう》に口を動かしている山羊のむれ・通りを隔てて喚《わめ》き合う会話・これら一切のうえに往き渡るむっ[#「むっ」に傍点]と鼻をつくにおい――おまけに、ここらの台所は共同で、しかも野外である。道路の横に大釜が据えられて、口きり一ぱいに羊の脂肪が沸騰している。この釜のまわりの子供と蠅・それを叱る母親・一せい哄笑する町の人々・じつに盛大に混沌雑沓を極めている。
波止場の附近では行商人に悩まされた。しかし、彼らはそれでも売るべき何ものかを持っていたが、もうここまで来ると、人は、売るべき何ものをも所有していない。だから、乞食は黙ってその病毒の患部を示し、子供達はわけもなく馬車を追って競争し、女はしきりに車上の行人に膚《はだ》をあらわす。
肉屋がある。血だらけな肉切り台は銀蠅で覆われてる。何という反食慾的な腐爛した臭気! そして、これはまた、何と悲しい麺麭屋《ベイカリー》だ! 店頭のぱん[#「ぱん」に傍点]は、数度の発疹に蒼白く横たわって息づいている。不潔と醜怪。狭い往来は病気の展覧会だ。狼瘡《ルウパス》、風眼、瘰癧《るいれき》、それからあらゆる期程の梅毒――。
馬車は急ぐ。
老人の忘八《ホア・マスタ》が、馬車と平行して走る。
『あらびやの女がいますよ。アラビヤの女が――。』
右からも左からも色んな声が馬車を包囲する。
『仏蘭西《フランス》の女! |大佐さん《ムシウ・カアネル》!』
[#ここから2字下げ]
モハメッドのために!
モハメッドのために!
[#ここで字下げ終わり]
と祈るように私語《ささや》くのは、盲目の老婆の手を引いた、ベズイン族の少女である。両頬に三本細く文身《いれずみ》してるのが、青い鬚のように見える。「モハメッドのために」幾らかくれと言うのだ。乞食には違いないが、それは表面で、内密には、即座に物好きな旅行者の求めに応ずる。道理で、乞食のくせに、ここらの住民のどれよりも小ざっぱりした服装をして、顔には白粉のようなものを斑《まだ》らに叩いていた。
この辺一帯がその町なのである。
よろめいて立つ塔婆《パゴダ》の並列。家々の窓から覗く土耳古宮廷妾《オダリスクス》と王公側室《サルティナス》と回教女《ファティマ》。何と貧しい淫楽の巷であろう! 植民地兵営の喫煙室みたいな前庭。その奥に、薔薇色の壁紙に広告用の掛け暦と、罅《ひび》の入った鏡とを飾った客間。全然生の興味を欠いた女たちの顔。洞穴のようにうつろな胸、睫毛《まつげ》のない眼、汚点だらけの肌、派手なKIMONO、羅物《うすもの》の下着《シミイズ》、前だけ隠すための無花果《いちじく》の葉の形の小エプロン――そんなものが瞥見される。
彼女らは先を争って戸口から走り出てくる。キモノが宙に飛んで、皮膚の大部分に直接陽が当る。が、慣れた光景とみえて、誰も何らの注意を払おうとしない。ある一軒の家からは、純粋のあらびや女がふたり、瘠《や》せこけた両腕を伸ばして何か盛んに我鳴り立てた。英語の解る御者に訊くと、土地特有の生ぬるいビイルを一杯ずつ飲ませろと言ったのだそうだ。
この恐るべきポウト・サイドの後宮《ハレム》をPASHAのごとく一順して、私たちは港へ帰った。
あらゆる天候によごれたSS・H丸の姿が何と有難く見えたことよ!
午後一時、石炭補充を終って出帆。
がら・がら・がら・がら――錨を上げる。
これから、今夜|晩《おそ》くまでスエズ運河がつづく。
右舷《スタボウド》の岸を船とならんで、白く塗ったカイロ行きの汽車が、沙漠と熱帯植物を背景にことこと這っていた。
6
紅海の或る日。
蒸し殺されるように暑い。これでも今日は幾分涼しいほうである。
速力。十三|哩《マイル》半。
南三八度E。
北風。軽風2。
温度。大気八四度。
海水度。八一度。
晴。
この「軽風2」というのは、1が light air, 2が light breeze の2である。
馬耳塞《マルセーユ》とナポリから大分の日本人が乗り込んで来て、船はいよいよ日本村の観を呈する。
独逸《ドイツ》から帰国の途にある作曲家のH・R氏――日本風に姓が上である――の一家や、K大学精神病学教室のK博士、A大学法医学部のK教授。それに、倫敦《ロンドン》から一しょに来たT博士と、だいぶお医者が多い。そのほか鉄工所のK工学博士、建築家のY博士、倫敦正金支店のK氏一家、N氏夫妻、砲兵大尉だの学生だの、外務書記生だの在外商店の人々だの、なかなかの賑やかさだ。
甲板ゴルフ、麻雀《マージャン》、ブリッジ、碁、輪投げ、散歩、デッキに設《こしら》えたプウルの水泳。夜は映画、音楽会。舞踏。
がたん・がたん、と細かく機関が唸る。
ぺいんとの香《におい》。海の色。甲板椅子。雲の峰。
私は毎日、私達の食卓のテエブル・マスタア副船長T氏の部屋へ出掛けて、モウルス信号《コウド》の残らかを覚えようと努力した。
船から船へ、発火、無線、旗などによって意思を通ずる浪漫的な海上国際語である。
U――君は危険に遭遇している。
V――助力を求む。近くにいてくれ。
R――貴船の位置は本船の航路外にあり。静かに通り過ぎよ。
L――停船! 重要あり。通信したし。
F――自航力なし。通信を求む。
DS――危険! 注意せよ。
BFY――不可能。
HOK――しかし。
MRZ――いつ君はのし[#「のし」に傍点]上げたのか。
MST――遠方。
AG――船を捨てるほか途《みち》なし。
AN――前進し得る状態にありや。
BJ――機関不能。
BK――何事が起ったのか。
DF――幾らかの応援あらば復旧することを得べし。
ETC・ETC・ETC。
諳記しては、片っぱしから綺麗に忘れる。
ある日の船内無線新聞。
伯林《ベルリン》。昨月曜日夜、ポッツァレル・プラッツに三百人を一団とせる共産党員の暴動起り、警察を襲う。大部隊警官の出動を見て、間もなく平穏に帰す。
フリイドリヒスハアフェン。天候可良ならば、ツェッペリン伯号は五月二日に維納《ウイン》を訪問すべし。
テュニス。伊太利《イタリー》新聞組合の戸外にて機関銃爆発。原因損害等一切不明。
スエズから古倫母《コロンボ》に
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