Yの山。荷物の丘。塵埃《じんあい》の塹壕。汗をかく起重機《クレイン》。耳を突く合図の呼子。骸骨のような貨物船。赤く錆《さ》びた鉄材の荒野。鳥打帽をかぶって首に派手な布を巻いた波止場の伊達者。眼の円い労働者たち。脚の太い駄馬の下を潜《くぐ》って遊び狂う子供らの群。蒼いアウク灯の堵列《とれつ》。鎖の音。汽笛。マンドリンで「君が代」を奏しながらH丸の下で投げ銭を待つ伊太利《イタリー》人の老夫婦。ドックに響く夜業の鉄鎚《てっつい》。古着と安香水を売りに船へ来る無帽の女。尼さんの一行。白衣《びゃくえ》の巴里《パリー》ベネデクト教団。黒服の聖《サン》モウル派。ノウトルダムの高塔。薄陽《うすび》。マルセイユ出帆。
 錨を上げる。
 ナポリまで四六二|浬《カイル》。一日半の地中海だ。

     5

 砂漠・暑い風・油ぎった水・陽に揺れる遠景・金属製の塔壁《パイロン》・伸び上ったり縮んだりする起重機の媚姿《ポウズ》・その煽情的な会話――かた・かた・かた――と、黒い荷船の群集・乾燥した地表の展開・業病に傾いた建物の列・目的のはっきりしない小船の戦争・擾乱と狂暴と異臭の一大渦紋・そのなかを飛び交すあらびや[#「あらびや」に傍点]語の弾丸・白い樹木・黄色い屋根・密雨のような太陽の光線――PORT・SAID。
 ポウト・サイド。
 倫敦《ロンドン》から三五八八|浬《カイル》。十一日二時間五十分。
 横浜まで八四七〇|浬《カイル》。三十六日。
 西洋の出口であるこの奇妙な門は、同時に、東洋への入口のより[#「より」に傍点]奇妙な門である。だから、PORT・SAIDは、白・黒・黄・赤の各人種によってアラビヤ風に極彩色された、二面神の象徴模型なのだ。
 スエズ運河はここからはじまる。
『明朝早くポウト・サイドに着きますが、入港と同時に石炭の積込みを始めますから、今夜おやすみになるまえに窓を閉めたほうがいいでしょう。よく忘れて開けて置いたため、窓から石炭の粉が舞い込んで、部屋じゅう真黒になった人があります。』
 と、昨夜の食卓でナイフとフォウクの間からこういうBROADCASTをした人があった。
 で、窓を締めたきりにした船室で、寝苦しい一夜を明かす。
 それでも、朝になってうとうと[#「うとうと」に傍点]としたらしい。
[#ここから2字下げ]
わ・わ・わっ!
わ・わ・わっ!
[#ここで字下げ終わり]
 という不可思議な叫喚を、最初私は夢のように聞いていた。が、気が付くと、私の耳には、慣れたエンジンの鼓動がない。停まってるな! と思うや否、その時まで遠くの蓄音機のようにぼや[#「ぼや」に傍点]けていた「わ・わ・わっ!」が、急に恐ろしい正確さで一度に私を揺り起した。
 ポウト・サイドの町が、埃《ほこり》っぽく騒ぎ立てながら、船窓から私を招いていたのだ。
 疾《とっ》くのむかしに石炭の荷役が開始されて、幾艘となく両側の船腹に横付けされた盥《たらい》のような巨大な荷船から、あんぺら[#「あんぺら」に傍点]の石炭ぶくろを担いだ半裸体の土人のむれが、甲板へ渡した板を伝わって一個師団ほど上下している。それはじつに、規則立った鎖の動作だった。二枚並べて架けた板梯子を踏んで、一定の間隔を置いた黒人たちが、一つを駈け上って他の一つから走り降りる。めいめい石炭を詰めた袋を運んで、それを、投げるように炭庫《バンカア》の口へあけては、遅れまいと熱狂している。見てると、まるで一連の機械のように、後からあとからと続いてるのだ。立ち昇る石炭の粉に、人も船も言語も真っくろである。「わ・わ・わっ!」は彼らの掛け声だった。私は、この、細い脚を持った蟻《あり》のような人たちの、驚くべき多数の努力を目前にして、同じような光景を呈したであろうピラミッド工事の当時を思った。
 そこで、私もいそいで、ジレットを揮い、コルゲエトの泡を吐き、オウトミイルに首を突っ込み、ヘルメットを頭に、追い立てられるようにA甲板へ出る。
 粉炭の濃霧を通して、ポウト・サイドは砂漠の蜃気楼だ。
 そして甲板は、いつの間に乗船して来たのか、土耳古《トルコ》人・埃及《エジプト》人・あらびや人の大雑沓である。とるこ帽・金いろの腕輪・赤銅の肌・よごれた白衣・じゃっぱん大阪製|竪縞《たてじま》の木綿洋服・陽に光る歯・動物的な体臭――。
 そのあいだを縫って、久しぶりに陸地に昂奮した船客達が、眼の色を変えて右往左往している。畢竟《ひっきょう》人間は土の上の生物だ。一刻も早く大地を踏みたい衝動に駆られて、みな無意識に脚がむずむず[#「むずむず」に傍点]しているのだ。一同誰もかれも、非常に重大な要事をもって人を探してると言ったように、そのくせ、ただわけもなく甲板を歩きまわりながら、先刻から何度も訊き合った無意味な質問を、会う人ごとに、双方同時に発している。
『上陸なさいますか。』
『上陸なさいますか。』
『は。ちょっと。』
『は。ちょっと。』
 向うでもやってる。
『上陸なさいますか。』
『上陸なさいますか。』
『は。ちょっと。』
『は。ちょっと。』
 相手の返事を聞かないうちに反撥するように別れる。と思うと、出あい頭《がしら》にまた「上陸なさいますか」なのだ。何という軽跳な、無責任に晴れ渡った寄港者の感情――それはそのままポウト・サイドの空の色でもある。
 後部の舞踏甲板は、欧羅巴《ヨーロッパ》人によって黄金の威力を実示された被征服民族の商隊で一ぱいだ。
 狡猾な微笑で全身を装飾した宝石売り――独逸《ドイツ》高熱化学会社製の色|硝子《ガラス》の小片を、彼らは「たくさん安いよ」の日本語とともに突きつけて止まない――と、二、三|間《げん》さきからお低頭《じぎ》をしながら接近して来る手相見の老人――「往年|倫敦《ロンドン》タイムス紙上に紹介されて全世界の問題となれる科学的手相学の予言者バガト・パスチエラ博士その人[#「その人」に傍点]」と印刷した紙を、証明のため額に入れて提げている――と、絵葉書屋と両替人――これは英語で、人の顔を見次第、「|両替は《チェンジ・モネ》? 旦那《マスタア》」とか「長官《ガヴァナア》」とか「大佐《カアネ》」とか、対者の人品年齢服装で呼びかけの言葉を使い別けする――と、埃及《エジプト》模様の壁掛け行商人と出張煙草屋と、そうしてふたたび、宝石売りと、手相見と、絵葉書屋と両替人と、壁かけ行商人と出張煙草商と、これらはどこにでも気ながに潜伏していて、甲板上のあらゆる意表外の物蔭から、砂漠の突風のごとく自在に現れて各自その商行為を強要する。奇襲された船客は逃げながらも楽しそうである。“No ! No thankyou,”「のん・めあし・ぱぶそあん――。」
 愛すべき寄港地の猥雑さ!
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Galla ! Galla ! Galla ! Galla !
Galla ! Galla ! Galla ! Brrrrr !
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 声がする。
 やはり土人だ。奇術師である。
 若い黒人が甲板に胡坐《あぐら》をかいて、真鍮のコップみたいなものを二つ並べて伏せては、大声に呶鳴っているのだ。
 人寄せの呪文であろう。
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がら・がら・がら・がら
ぶるるるるるるるるる
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 Brrrrと唇をふるわして、彼は、金属性の扣鈕《ボタン》を二つ三つコップへ入れて振る。するとそれが、一羽の雛《ひな》っ子に早変りして出て来る。見物が集まる。今度は手品師は、船客の女の一人にひよっこ[#「ひよっこ」に傍点]を握らせて置いて、また「GALLA・GALLA・GALLA」をやる。女が手をひらくと雛は解けて空気になっていた。
 ぽかん[#「ぽかん」に傍点]としてる女の顔へ、一同の爆笑が集中する。なくなった雛鳥は、一番大きな口をあけて笑った、女の同伴者の紳士の咽喉《のど》の奥から、黒い魔術師の指さきに摘《つま》み出された。真昼間のアラビアンナイト。
[#ここから2字下げ]
がら・がら・がら・がら!
ぶるるるるるるる!
[#ここで字下げ終わり]
 黒人の眼は異様に輝きを増し、扣鈕《ボタン》だけでは面白くないからと客に投げ銭を求める。あちこちからお金が降る。その白銅や銀貨がつぎつぎに彼のポケットへ消えて、代りに何羽ものひよっこ[#「ひよっこ」に傍点]が甲板を這い出す。「もっとお金を! もっとお金を!」と黒人が叫ぶ。ようやく気が付いた観客は、金のかわりに苦笑を与えて散らばりはじめる。この浮き足立った群衆を食い止めようとして、黒人の額には黒い汗の粒々が滲《にじ》み、その一つ一つをかっ[#「かっ」に傍点]と照りつけて、ポウト・サイドの太陽は麺麭屋《ベエカリー》の仕事場のように暑い――「がら・がら・がら・がら」船客中の子供達のあいだに、直ぐもう甲板の方々でこの真似が流行《はや》り出している。
 船の周囲は、商隊の乗り捨てた小舟で埋立地のようだ。遠くからは、蝉《せみ》の死骸に蟻がたかったように見えるに相違ない。海上のそこここに同じ集団が散在している。青煙突《ブルウ・ファネル》は英吉利《イギリス》の貨物船・黄地にQ字の検疫旗を揚げたメサジェリイのふらんす船・デラクサ号は伊太利《イタリー》船だ。下に、船籍港ナポリという字が運河の水に白く揺れている。
 九時半上陸。
 桟橋までさんばん[#「さんばん」に傍点]。
 甲板給仕《デッキ・スチュワアド》が船腹梯子《ギャング・プランタ》に立って艀舟《はしけ》を呼ぶ。声に応じて、幾つもの赤い土耳古《トルコ》帽が櫓《ろ》を操って殺倒する。上陸する女客たちは、大げさに怖がって、水夫の手で小舟へ助け下ろされる。彼女らは、ボア・ドュ・ブウロウニュへでも散歩に行くつもりで澄し込んだのだ。みんな、これから探検しようとする異国空気の期待に上気して、頬を紅くしている。どの小舟も、そういう女達を満載して、用もない嬌笑とはしゃ[#「はしゃ」に傍点]いだ歌声が水面を流れる。
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〔Pardonnez a` mon bavardage
J'en suis a` mon premier voyage.〕
[#ここで字下げ終わり]
 BRAVO!
 形式として、一まず税関の柵内を通り過ぎる。
 ち・ち・ち・ち――と手のなかの土耳古銀《ピアストル》を鳴らして往手に立ち塞がる両替屋の群、掴み掛るように乗用を促す馬車屋の一隊、それらを撃退して市街へ出ると、町角、店先、往来のいたるところに同じ船の連中が三々伍々している。寄港は、長い航海中での祭日だ。誰もかれも必要以上に着飾って、石炭の風と起重機《クレイン》の唸りの本船から脱出して来たらしい。
 婦人客たちは、久しぶりに帽子をかぶったので、すっかり顔違いがしてまるで別人のようだ。みんな悪戯《いたずら》好きらしい眼つきをして歩道の石畳を蹴っている。
 私達の一行も、児童のような驚異と好奇で一ぱいだ。
 やあ! 来たぞ! 来たぞ! アラビヤ人が来たぞ! うふっ! 堂々たる髯だなあ!
 そうかと思うと――。
 あ! 何だいあれあ! え! 埃及《エジプト》の女だって? 鼻柱へ輪のついた棒みたいな物を立てて、黒いヴェイルを垂らしてるじゃないか。おい君、そばへ寄ってそのあらたか[#「あらたか」に傍点]なヴェイルを引っ張ってみたりしちゃあいけないよ。だから外国人は下品だって言われるんだ。黙って遠くから感心して居給え。通る人が笑ってるじゃないか――。
『あのアラビヤ人は贋《にせ》ものね。』
『なぜ?』
『だって駱駝《らくだ》に乗ってないじゃありませんか。』
 なんかと、きょろきょろ立話していると、その問題のあらびや人が引返して来て、そっと私の肘を突ついた。そして「堂々」たる白髯の奥から彼がささやく。
『旦那《マスタア》! 春画《オブシイン》! 春画《オブシイン》!――ちょっと婦人方に背中を向けて、まあ、一眼でいいから私の手許を御覧なさい。ほう! これ! 素敵だね! え? 早く! 旦那《マスタア》、春画《オブシイン》だよ、ほら!』
 辟
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