A四日の朝、東京へ来る特急のなかで、再下附の旅券がないと彼女がいい出した。なあに、もう日本国内だから旅券なんか要らないさと私は威張ってみたものの二度も紛失したんではどうも後始末が厄介である。困ったことになったと些《いささ》か悄気《しょげ》ていると、これは幸いにして帝国ホテルへ着いて当座の荷を解くと、その鞄の一つから現れたのでまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。
 が、いくら呑気だからって、私たちほど忘れ物を商売にしてるようなのもあるまい。そのオリエンタル・ホテルででも、部屋を出る時は一かど落着いてすっかり検分したつもりだったにも係わらず小使《ポウタア》の一人が動き出そうとしている私達の車窓へ葡萄牙《ポルトガル》で買った銀の煙草入れを届けてくれたし、帝国ホテルでだって、いよいよ鎌倉の自宅へ帰る段になって、勘定《ビル》を済まして玄関で自動車を待っていると、そこへあたふた[#「あたふた」に傍点]と部屋付きボウイが私の時計と彼女の帽子を持って駈けつけて来たくらいである。
 この通り、自慢じゃないが、一年半に近い外遊中、私達が諸国各地のホテル・停車場・タキシ内――これが一番苦手だ――その他料理店等で置き忘れて来た色んな物品を価格に見積ると、決して馬鹿にならないものがある。なかんずく、その種品別にいたっては実に奇抜の到りで、ことに今考えても口惜しくて耐らないのは、芬蘭土《フィンランド》の内地へ踏み込んだとき――まあ、止《よ》そう。愚痴をこぼしたってどうにもならないし、それに、この置き忘れ・紛失物の一件を並べ出すと、それだけで優に、生活の角度から見た全般にわたる旅行漫筆が出来上るくらいで、その土地々々に関する多少の描写の説明も必要だし、何よりも、いまここにその紙数もなければ場合でもない。しかし、のべつ幕なしに驚いたり急いだり狼狽《あわ》てたりするのが、旅行者の特権であり義務であるとは言いながら、あれほど色んな国へ雑多な物を撒き散らして来たくせに、よく自分で自分を置き忘れて、自分を西班牙《スペイン》かどこかのホテルの寝台へでも寝かしたまんまにして来なかったものだと、われながら感心している。
 それはそうと、いつの間にかもう日本へ帰着したようなことを言っているが、じつは、話しのうえでは、SS・H丸はいまやっと倫敦《ロンドン》テムズ下流のロウヤル・アルバアト埠頭《どっく》を離れたばかり
前へ 次へ
全30ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング