CとNANだ。で、母親のケニンガム夫人は、このふたつの名前をいろいろに使って、それで娘を馴致《じゅんち》しようと心がけていた。言うまでもなく、ケニンガムは倫敦《ロンドン》から来ている家族である。
さて、この物語のはじめに、僕は、主人公のロジェル・エ・ギャレは漠然と結婚の相手を探しあぐんで、この瑞西《スイツル》山中の聖《サン》モリッツまで辿り登って来たのだと説明したように覚えているが、この漠然というところを、僕はいま、急に改めなければならない必要に面しているのだ。それは彼が、自分はナタリイ・ケニンガムに恋を感じていると、僕に打ち明けたからである。
ナタリイ・ケニンガムは、ベンジンのように火のつき易き性質だった。彼女は、片っぽうの眼で泣いて、ほかの眼で笑うことが出来た。お茶を飲みながら、食堂の真ん中で靴下を直した。晩餐には、アフタアヌウンの上へ真黄いろなジャンパアを引っかけて出席した。そして、それを笑う人と一しょに笑った。食後は、小刀《ナイフ》をくわえて西班牙《スペイン》だんすを踊った。昼は真赤なPULL・OVERでスキイに出かけた。というよりも、それは雪の上を転がるためだった。ころぶ時には、必ず誰か男の上を択《えら》んだ。それがロジェル・エ・ギャレだったことが二、三度つづいて、そして、可哀そうな彼をしてこの奔放な錯覚に陥らしめたのだった。彼女のスキイは、誰も手入れをするものがないので肉切台のように痕《あと》だらけで乾割《ほしわ》れがしていた。だから、彼女の加わった遠足スキイ隊は、必ず途中で何度も停滞して、彼女の所在を物色しなければならなかった。そういう場合には、彼女の赤い服装が雪のなかで大いに発見を早めた。すると彼女は、いつもスキイが脱げて立っていた。それを穿かせようとして、多くの男が即座にCRESTA・RUNを開始した。みんな一ばん先に彼女の助力へ走ろうと争ったが、これは、例外なくロジェル・エ・ギャレが勝つに決まっていた。それは決して、彼がスキイの名手だったからではなかった。つねに彼女のそばにいて、彼女のスキイに事件が起るや否、誰よりも早く奉仕出来る手近かな地位を占めているためだった。彼は、たとえ神様の命令でも、この特権を他人に譲ろうとはしなかった。早朝からNANの動静をうかがっていて、彼女が自室でスキイの支度をしている時は、すっかり用意が出来てホテルの玄関に待っている彼だった。その彼へ、彼女はときどき薄っぺらな笑いの切片を与えているだけにしか、私たちの眼には見えなかったが、それでも、ロジェル・エ・ギャレは満足以上の様子だった。雪解けがあったりして、スポウツに出られない日がつづくと、彼はもっと忙しかった。ナニイのブリッジの相手はこの希臘《ギリシャ》人に一定していた。お茶の舞踏には、火の玉みたいな彼女の断髪が、彼の短衣《チョッキ》の胸にへばり附いて、仲よくチャアルストンした。彼はその、上から二つ目の扣鈕《ボタン》の横に残った白粉《おしろい》のあとを、長いこと消さずにいた。それを人に注意されて笑う時の彼が、一番幸福そうだった。夜は、人並よりすこし長い彼の手が、フロックの下に直ぐ靴下吊具《サスペンダア》をしている彼女の腰を抱えてふらふら[#「ふらふら」に傍点]と「|黒い底《ブラック・バタム》」を踏んだ。しかし、|神よ王様を助け給え《ガッド・セイヴ・ゼ・キング》が鳴り出す前に、ナタリイは逸早く逃げ出していた。それを追っかけて、ロジェル・エ・ギャレはホテルじゅうを疾走した。会う人ごとに、彼女を見かけなかったかと訊くのが、彼は大好きだった。が、その時はもう彼女は部屋に上って、バス・ルウムで水を引いていた。その音は、どこにいても彼の耳に聞えて、はっきり鑑別出来るらしかった。これで彼も、ようようその一日を一日として、WATAのように疲れた身体《からだ》を階上の自室へ運び上げた。
こうして、ナタリイ・ケニンガムに対するロジェル・エ・ギャレの関心は、この一九二九年のシイズンの、オテル・ボオ・リヴァジュでの一つの affair にまで進展しかけていた。
7
ケニンガム夫人のウィンタア・スポウツに対する観念は、DORFとBADの聖《サン》モリッツじゅうに有名なほど、それは独特なものだった。まず彼女は、白繻子《しろじゅす》の訪問服の上から木鼠《きねずみ》の毛皮外套を着て、そして、スキイを履《は》いた。帽子には、驚くべきアネモネの縫《ぬい》とりがあった。耳環《みみわ》は|真珠の母《マザア・オヴ・パアル》の心臓形だった。彼女は、このいでたちでホテルの前の雪に降り立つのだ。やがて、二、三歩雪の坂をあるいたかと思うと、直ぐ立ちどまって、鼻のあたまに白粉を叩いた。それが済むと、いそいでホテルへ帰った。そうして残りの一日を、彼女は客間の大椅子で「休養」に過すのである。これがわがケニンガム夫人のウィンタア・スポウツだった。
冬の St. Moritz ――白い謝肉祭《カーニヴァル》は要するに仮面の長宴だ。
そこへ、羅馬《ローマ》法王の触れ出したほんとの謝肉祭《カーニヴァル》が廻って来た―― The Ice Carnival !
宵から朝まで、ホテルのスケイト・リンクで紐育《ニューヨーク》渡りのバヴァリイKIDSがサクセフォンを哮《ほゆ》らせ、酒樽型の大太鼓をころがし、それにフィドルが縋《すが》り、金属性の合いの手が加わり――ピアニストは洋襟《カラア》を外して宙へ放る。
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Was it a dream ?
Say, was it a dream ?!
昨夜《ゆうべ》あなたは僕の腕のなかにあった。
僕の腕はまだその感触でしびれてる!
それなのに夢だなんて!
[#ここで字下げ終わり]
一曲終る。アンコウルの拍手はしつこい。つづいてまた直ぐに始まる。限《き》りがない。ディッケンス小説中の人物・ハムレット・1929嬢・奴隷酷使者《スレイブ・ドライヴァ》・なぽれおん・REVUE広告のサンドイッチ人形・ルイ十四世・インディアン・ラジャ・めくらの乞食・道化役・あらびや人・支那の大官・蝶々さん――そのなかで、古タオルだけで扮装した南洋の土人が一等に当選する。案山子《かかし》は古い。牛小僧《カウ・ボウイ》も月並だ。大がいの人が、衣裳は倫敦《ロンドン》から取り寄せる。キングスウェイにデニスン製紙会社というのがあって、いろんな色で註文通りの紙衣裳を作ってくれるのだ。が、謝肉祭《カーニヴァル》の扮装舞踏に一ばん大事なのは、着物よりも顔の|つくり《メイキ・アップ》だ。大ていこれだけは、一組トランクの底に用意して旅行に出る。洗顔用タオル、赤いグリイス塗料《ペイント》、黒のライニング・ステック、楽屋用ワセリン一壜、白粉。顔を黒くするにはコルクを焼いてつけるといい。聖《サン》モリッツの薬屋でも、これだけ一箱に揃えて売っている。
仮装にスケイトをつけた人々が、氷の上に二重の輪を作る。内側は女ばかりで、外が男の列だ。女は外を向き、男の円はそれに対して内面して立つ。楽手は、全然テンポの違った二つの楽を奏さなければならない。はじめの音楽で女は左へ廻る。それが済むと、次ので男が右へステップする。そして、終ったところで向き合った同士が、その一晩の踊りの相手ときまるのだ。
私達の前には、枕のような雪の丘がゆるい角度をもって谷へ下りていた。そのところどころに雪を解かして焚火《たきび》が燃えていた。高山系の植物が、隊列を作って黒い幹を露出していた。まるで無数のハンケチを干したような枝の交叉は、裸火《はだかび》の反映で東洋提灯の示威運動みたいだった。切り拓かれたリンクの周囲に、BUFFETの食卓が並んだ。そこを扮装のスポウツマンとスポウツウウマンとが、けたたましく笑いながら揺れ動いていた。どこにでも人を呼ぶ声があった。空は雪を持って赤い水蒸気だった。山峡には馬橇《ばそり》の鈴が犇《ひし》めいていた。
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Was it a dream ?
Say, was it a dream ?
[#ここで字下げ終わり]
ロジェル・エ・ギャレが、この、相手の選択ダンスで、何とかしてナタリイ・ケニンガムを掴もうと非常に努力したことは勿論だが、これは、彼の望みが外れたほうが自然だったと言わなければなるまい。ナニイは、多分、二、三日前にホテルへ来たらしい、見たこともない男と組んでしまって、ロジェル・エ・ギャレには、ほかの女が当った。が、それは彼一流の交渉の才能で、自分の思うとおりにFIXされ得べき性質のものだった。事実彼は、じぶんに当った女をNANの相手に押しつけ、そして、彼からナニイを横取ることによって、つまり、簡単には、女を交換して、見事にこの危難を征服した。彼女は、その火の玉のような断髪を彼の短衣《チョッキ》の胸へ預けて、片っぽうの眼で笑い、もう一つの眼で泣きながら、スケイトのJAZZを継続した。彼は、上から二つ目の釦《ぼたん》の横に残った白粉の残りを、長いこと消さずにおくことにきめた。僕がそれを注意したら、彼は幸福そうに微笑んだ。人並よりすこし長い彼の手が、女給の変装の下にすぐ細いサスペンダアをしている彼女の腰をかかえて、夜っぴて「黒い底」を廻った。しかし、「神よ王様を助け給え」が鳴り出す前に、ナタリイは逸早く逃げ出していた。それを追っかけてロジェル・エ・ギャレは森じゅうを逍遥した。母親のケニンガム夫人は勿論、本人のNANもこの希臘《ギリシャ》人の上に自分がそんな大きな動揺を投げていようとは知らなかった。彼女はただ、ベンジンのように火のつき易い性質に過ぎなかったのだ。だから、ふたりが、一晩中森から出て来なかったとしても、それは誰のSINでもない、彼女の何気ない言動のことごとくが、ロジェル・エ・ギャレの眼で見ると、全く別の内容をもって響かざるを得なかったのだ。その晩、森のなかで、ロジェル・エ・ギャレは、ナタリイ・ケニンガムに正式に結婚を申込んだ。それは、彼女を驚かせるに充分だった。
『あら、なぜそうあなたは「大戦以前」なの? 結婚ですって?――いいじゃありませんか、そんなこと。』
そして、即座にそこで、ロジェル・エ・ギャレは、結婚と同じものを投げ与えられたことは、言うまでもあるまい。
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昨夜《ゆうべ》あなたは僕の腕のなかにあった。
僕の腕はまだその感触でしびれてる。
おお! それなのに夢だなんて!
Say, was it a dream ?
Was it a drea−−m ?!
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――というロジェル・エ・ギャレの話なんですが、いかがです、お気に召しましたか。
ロジェル・エ・ギャレとナタリイは、その翌日朝早く、ケニンガム夫人を寝台へ残したまま、幸福と一しょに巴里《パリー》へ逃亡してしまった。しかし、これは、飽くまでも私達の概念する結婚ではないのだ。なぜならそれは、瑞西《スイツル》のウィンタア・スポウツに無くてはならない、あの「かたい雪」の部に属する近代恋愛なのだから。だから、例の、がらす玉のように妙にぎらぎらする嫉妬の要もあるまいし、多くのシチュエイションを手がけて、激しい交通に踏み固められた、この場慣れた二人のあいだに、それは、「大戦後の新道徳」によって、勇壮に滑走すること請合いだ。そして、よりいいことには、相互の理解の上で、いろんな恋愛技術のSTUNTが行われるだろう。クリステだの・ステムだの・V字形だの、と。
冬の聖《サン》モリッツは、両大陸の流行の大行列だ。
倫敦《ロンドン》と巴里と紐育《ニューヨーク》の精粋が、ウィンタア・スポウツに名を藉《か》りて一時ここに集注される。
――大小の名を持つ人々・名をもたない人々・新聞の写真によって公衆に顔を知られている紳士と淑女・知られてない紳士と淑女・女優・競馬騎手・人気作家・あまり人気のない作家・離婚常習犯人・商業貴族・生産のキャプテン達・彼等の家族中のJAZZ・BOYSと・反逆年齢に達した娘たちの大集団・独逸《ドイツ》から出稼ぎに来て
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