オたが、俄かに起き上った祖母が、戸口や窓のところに立って、しきりに外部を窺っている様子なのです。どうしたんだろう――と思いましたが、そのうちに私も、眠さに負けてしまったとみえます。眼が覚めた時は美しい朝で、祖母はもう床を出て、心配そうに部屋中を歩き廻っていました。
ゆうべ祖母は、確かにあのベギュル・ヌウの跫音《あしおと》を聞いたと言うのです。その小鬼が、一晩じゅう雨に紛れてこの家のまわりを迂路《うろ》ついていた――祖母は、それを自分のお葬式の報《しら》せであると取りました。
『しかし、』と思い切って私は、祖母に注意してみました。『しかし、ベギュル・ヌウなら、お葬式のほかに結婚の先ぶれもすると言うじゃありませんか。きっと、近いうちに、私達のところへ結婚が来るのでしょう。』
すると、祖母は大声に笑い出して、私の小さな希望を失望の破片に変えてしまったのです。
『馬鹿な! 私のようなお婆さんに今になって結婚がやって来るなんて! 冗談もいい加減にするがいい。』
祖母はその後長く生きていました。そして、カルナクの村に、毎年幾組かの新夫婦をふやして行きました。が、私の結婚だけは、とうとう彼女の頭へ来なかったとみえます。私が結婚したのは、彼女の死後、ひとりで巴里《パリー》へ出て、よほど経ってからのことでした。それでも、いまでも仏蘭西《フランス》の田園や漁村には、私の若かった頃のような娘や、祖母と同じマッチ・メイカアや、村はずれの跨《また》ぎ石や、ベギュル・ヌウの鬼《ポウギ》などが揃っていて、古風な楽しい日が続いています。』
瑞西《スイツル》ウィンタア・スポウツのいろいろ。
スキイング――ホテル所属の斜面で美しい動作の習練にばかり熱中する人と、クロス・カントリイの遠走にのみ力を入れる型と、二種類ある、が、両方が或る程度まで平行しなければ、一人前のスキイヤアとは言われない。
テレマアク――軟雪の上に片膝ついて、他足を外側から前へ持って来てタアンする。
Ski−joring ――シイ・ヨウリングと読む。スキイで立って、馬に綱をつけて引っ張らせる。相当走らせるには、まず単独スキイの心得を必要とすること、言うまでもあるまい。
スラロム――むこうの困難な角度に立っている旗を廻って来るスキイ競走だ。一人ずつ走って、タイムで優劣がきまる。
スキイ・ジャンピング――ジャンピングには、スキイヤアは雪杖《ステック》を持たない。なめらか雪のトラックを辷《すべ》って来て、一線に小高く築いた踏切りへ達すると、スキイヤアはそのはずみで空へ飛ぶ。同時に両手を円く廻して飛行を助けるのだ。下が急傾斜になっているから、しぜん遠くへ届く。記録の計り方は、踏切線から、スキイの背部の落ちた地点までを取ることになっている。転べば除外される。
スケイティング――瑞西《スイツル》のスケイティングには、大陸式《コンチネンタル》と国際式《インタナショナル》の二類型ある。
前者は、言い換えれば英吉利《イギリス》風で、手も足も、身体《からだ》全体を直線的に動かしてスケイトしなければならない。インタナショナルの方は、足の使い方も自由だし、運動を助けるために身体をどう曲げてもいいことになっているから、初めての人にはこのほうが這入りやすい。曲《ファンシイ》スケイティングには、短かいスケイトが適当とされているが、氷ホッケイや競争には長スケイトが用いられている。
その他、いま言った氷上ホッケイだの、カアリングだの、バビングだの、テイリングだの、ルウズィングだのと、これらがまた幾つにも別れて、瑞西《スイツル》あたりのウィンタア・スポウツになると、かなり複雑なゲエムに進化しているが、そのなかでも、最も勇敢で、したがって一ばん危険の多いのが、俗に「骸骨《スケルトン》」と呼ばれるトボガン橇《そり》である。これは鋼鉄のスケルトンの上に板を渡して、走者はそのうえに、頭を下にして腹這《はらんば》いになる。うしろに出ている靴の爪先きにスパイクがついていて、それで舵《かじ》を取るのだ。時として肘や膝にもプロテクタアを当てがい、人によっては顔に厚い保護面《マスク》を被《かぶ》ることもある。滑路の両側には高い雪の塀を造って、橇が横へ外《そ》れないようにしてあるが、往々にしてそれを越えてすっ[#「すっ」に傍点]飛ぶことが珍らしくない。聖《サン》モリッツのとぼがん[#「とぼがん」に傍点]の記録は、ついに一時間七十|哩《マイル》を突発している。例のモリッツ名物CRESTA・RUNというのがこれである。
言うまでもなくモリッツのウィンタア・スポウツは、じつに大仕掛けなものだ。たとえば、スキイ・ジャンピングの競技場などでも、他のレゾルトでは、スキイ穿《ば》きで見物に来た人が、ずらりと雪の上に立って取り巻いているくらいのものだが、サン・モリッツとなると、瑞西《スイツル》の国旗を立て並べてお祭りさわぎの装飾をする。ジャンプ場なんか、まるでウィンブルドンの中央テニス・コウトの観がある。広い座席が何段にも重なって、一等席は倫敦《ロンドン》一流の劇場以上の切符代を取ってるくらいだ。そこへ、巨鳥のようにジャンパアが落ちてくると、パティの実写機が光る。運動記者の鉛筆はノウト・ブックを走り、メガフォンがその時々の結果を報告して号令のように轟《とどろ》く。
スケイトも同じだ。聖《サン》モリッツあたりのリンクで、軽業《かるわざ》のような目ざましいスケイティングをやってる連中を見ると、大抵は専門家ばかりである。橇競馬は瑞西《スイツル》じゅうどこにでもあるが、サン・モリッツはゲエムの馬が違う。頭部に色彩の美しい飾りを附けていて、橇もほかのより大きく立派に出来ている。
夜はダンスだ。どんなホテルでも舞踏交響楽のないところはない。昼間、男女の区別もわからないほど荒っぽい毛織物に包まれて雪と氷を生活していた紳士淑女が、短時間のあいだに流行の礼装に早変りして、ステイムと酒の香の温かい床《フロア》に「|触れ《タッチ》」を与えながら、夜が更けて、やがて、夜の明けるのを知らない。
例えばこの、オテル・ボオ・リヴァジュのバワリイKIDS大ジャズ・バンド。
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Was it a dream ?
Say, was it a dream ?!
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6
寒い国のくせに、どういうものか煖※[#「火+房」、288−5]の設備が感心しないから、瑞西《スイツル》のホテルは、来た当座は、誰もあんまりいい気持ちはしないらしい。もっとも、いぎりす人なんかがよく行くビイテンベルヒのレジナ・ニパラスあたりは、彼等の随喜する薪《まき》を焚く炉が切ってあるけれど、そのほかの場所では、大がい痩《や》せこけたステイム・パイプが部屋の片隅に威張ってるだけだ。それも、約束どおり働かなかったり、或いは逆に、蒸気が上り過ぎて室内が温室のようになったりして、とかく、この瑞西《スイツル》のホテルのステイムには非道《ひど》い目に会うことが多い。スプルウゲンでは、ホテルの一室ごとに中央に大きなストウヴが据え付けてあって、煙突が屋根をぶち抜いている。あまり美的でないと同時に、これは塵埃《ほこり》を立てるので弱らせられる。それから、これだけは、どうしても大きなホテルへ行かなければ遣《や》り切れない一つの理由は、お風呂である。スポウツで汗をかいて来ても、直ぐにお湯に這入れないとあっちゃあ、殊に日本人は往生する。
全く瑞西《スイツル》のステイムは、よくこれで失敗する旅客があるので有名だ。倫敦《ロンドン》や巴里《パリー》のつもりで寝てしまえば要らないだろうというんで、すっかり閉めてしまうと、パイプの運行が停まって湯が冷めるもんだから、夜が更けるにつれて凍り出すようなことになる。いわんや、ほかの国の気で、寝る前に窓でも開けておこうものなら、寒さのためパイプが破裂すること請合いだ。先年ルケルバルドでこのステイム・パイプがホテルの屋根を吹き飛ばしたことがある。あとからナイアガラのように水が噴き出て、不幸な止宿者一同は、難破船の乗組員みたいに泳ぎながら、村役場の出した救助ボウトを待たなければならなかった――なんかと、まさか、それ程でもあるまいが、ホテルのポウタアが話しているのを聞いた。が、これも、考えてみると、外国人には間違い易く出来ているのである。なぜかというと、ステイムの廻転面にある Auf という字は、英語の Off に発音が似てるけれど、こいつが食わせ物なんで、実は、その逆の On なのだ。そして、もう一つの Zu というやつが、Off を意味する。こういうことは、あちこち旅行していると珍らしくない。伊太利《イタリー》語の Caldoが、発音や字形の類似を無視して、ちょうど Cold の正反対の Hot に当るようなものだ。この場合も、冷水のつもりで熱湯を捻《ねじ》って、それこそ手を焼く――などという大失敗を演ずる旅行者が、ちょいちょいある。
よく犢《こうし》を食べさせられるにも、いい加減うんざりさせられる。じっさい瑞西《スイツル》では、どの牛も、牛になるよほど以前に殺されてしまうのであろうと思われるほど、さかんに、無反省に、犢《コウシ》の肉を出す。が、特に女の人に有難いだろうと思われるのは、チョコレイトである。それでも、戦争前は、もっと安かったものだそうだが、この頃だって、世界のどこよりも見事なのが、ずっと廉価に売られている。飲料はチョコレイトなんかには、じつに素晴らしいものがある。TEAの店も、聖《サン》モリッツあたりでは随分繁昌しているが、女給はお茶を持って来るだけで、ペエストリやなんかは自分で立って行って取って来なければならない。これを知らない外国人などがよく魔誤《まご》ついているのを見かけたものだ。
言葉は、主として仏蘭西《フランス》語と独逸《ドイツ》語だ。伊太利《イタリー》語も、南部の国境地方ではかなり通用するらしい。饒舌《しゃべ》っている瑞西《スイツル》語なるものを聞くと、ずいぶんよく独逸語に似ているけれど、字を見ると違う。ロマンシュといった瑞西《スイツル》特有の言葉は、この頃ではほとんど使われていないらしい。
しかし、まあ、どこへ行ってもそうであるように、都会の相当なホテルにいる以上、英語ですべて用が足りることは勿論だ。事実、聞くところによると、瑞西《スイツル》のホテルの給仕人や、チェンバア・メエドは、かならず英語の勉強に交代の倫敦《ロンドン》へ出て来るのだそうだ。だから、英語だけで立派に日常の用が弁ずるのに、不思議はなかった。
これは何も瑞西《スイツル》に限ったことはないが、方々歩いていて言語に困った時は、そこはよくしたもので、思わない智恵が浮んで来る。たいがいのことが、人間同志の微妙な表情で、どうやら相互に理解がつくから妙だ。
この間に処して、旅行者のための文章本《フレイズ・ブック》というものがある。が、これは余計だ。僕らも一通り揃えて持ち歩いたが、ほとんど使ったことがないと言っていい。肝腎なことだけは全部丁寧に抜かしてあるのだ。例えば、「あなたは羨むべき美しい声の所有主です」ことの、「きっと大歌劇に出ていたことがおありでしょう」ことの、という応接間的会話の羅列をもって充満されていて、よほど根気よくあちこち捜すと、「自分には七つの鞄がある」――なんてのを発見することもあるが、こういう成文《じょうぶん》は、実に、非実用の極《きわみ》、愚の到りで、あの忙しい停車場の雑沓で、へんてこ[#「へんてこ」に傍点]な外国語の本を開いて、駅夫相手にこんなことを言ったってとても[#「とても」に傍点]始まらない。それよりは耳でも掴んで引っ張って来て、七つの鞄を見せながら、白眼《にら》みつけるほうが早い――ということになる。そして、食堂で牛乳が欲しくても、靴下を洗濯に出そうと思っても、そういう俗悪なことは、この上品な文章本のどの頁にもないのである。
ナタリイ・ケニンガムは前まえから言うとおり二つの愛称を所有していた。ナニ
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