セけで、ペエストリやなんかは自分で立って行って取って来なければならない。これを知らない外国人などがよく魔誤《まご》ついているのを見かけたものだ。
 言葉は、主として仏蘭西《フランス》語と独逸《ドイツ》語だ。伊太利《イタリー》語も、南部の国境地方ではかなり通用するらしい。饒舌《しゃべ》っている瑞西《スイツル》語なるものを聞くと、ずいぶんよく独逸語に似ているけれど、字を見ると違う。ロマンシュといった瑞西《スイツル》特有の言葉は、この頃ではほとんど使われていないらしい。
 しかし、まあ、どこへ行ってもそうであるように、都会の相当なホテルにいる以上、英語ですべて用が足りることは勿論だ。事実、聞くところによると、瑞西《スイツル》のホテルの給仕人や、チェンバア・メエドは、かならず英語の勉強に交代の倫敦《ロンドン》へ出て来るのだそうだ。だから、英語だけで立派に日常の用が弁ずるのに、不思議はなかった。
 これは何も瑞西《スイツル》に限ったことはないが、方々歩いていて言語に困った時は、そこはよくしたもので、思わない智恵が浮んで来る。たいがいのことが、人間同志の微妙な表情で、どうやら相互に理解がつくから妙だ。
 この間に処して、旅行者のための文章本《フレイズ・ブック》というものがある。が、これは余計だ。僕らも一通り揃えて持ち歩いたが、ほとんど使ったことがないと言っていい。肝腎なことだけは全部丁寧に抜かしてあるのだ。例えば、「あなたは羨むべき美しい声の所有主です」ことの、「きっと大歌劇に出ていたことがおありでしょう」ことの、という応接間的会話の羅列をもって充満されていて、よほど根気よくあちこち捜すと、「自分には七つの鞄がある」――なんてのを発見することもあるが、こういう成文《じょうぶん》は、実に、非実用の極《きわみ》、愚の到りで、あの忙しい停車場の雑沓で、へんてこ[#「へんてこ」に傍点]な外国語の本を開いて、駅夫相手にこんなことを言ったってとても[#「とても」に傍点]始まらない。それよりは耳でも掴んで引っ張って来て、七つの鞄を見せながら、白眼《にら》みつけるほうが早い――ということになる。そして、食堂で牛乳が欲しくても、靴下を洗濯に出そうと思っても、そういう俗悪なことは、この上品な文章本のどの頁にもないのである。
 ナタリイ・ケニンガムは前まえから言うとおり二つの愛称を所有していた。ナニイとNANだ。で、母親のケニンガム夫人は、このふたつの名前をいろいろに使って、それで娘を馴致《じゅんち》しようと心がけていた。言うまでもなく、ケニンガムは倫敦《ロンドン》から来ている家族である。
 さて、この物語のはじめに、僕は、主人公のロジェル・エ・ギャレは漠然と結婚の相手を探しあぐんで、この瑞西《スイツル》山中の聖《サン》モリッツまで辿り登って来たのだと説明したように覚えているが、この漠然というところを、僕はいま、急に改めなければならない必要に面しているのだ。それは彼が、自分はナタリイ・ケニンガムに恋を感じていると、僕に打ち明けたからである。
 ナタリイ・ケニンガムは、ベンジンのように火のつき易き性質だった。彼女は、片っぽうの眼で泣いて、ほかの眼で笑うことが出来た。お茶を飲みながら、食堂の真ん中で靴下を直した。晩餐には、アフタアヌウンの上へ真黄いろなジャンパアを引っかけて出席した。そして、それを笑う人と一しょに笑った。食後は、小刀《ナイフ》をくわえて西班牙《スペイン》だんすを踊った。昼は真赤なPULL・OVERでスキイに出かけた。というよりも、それは雪の上を転がるためだった。ころぶ時には、必ず誰か男の上を択《えら》んだ。それがロジェル・エ・ギャレだったことが二、三度つづいて、そして、可哀そうな彼をしてこの奔放な錯覚に陥らしめたのだった。彼女のスキイは、誰も手入れをするものがないので肉切台のように痕《あと》だらけで乾割《ほしわ》れがしていた。だから、彼女の加わった遠足スキイ隊は、必ず途中で何度も停滞して、彼女の所在を物色しなければならなかった。そういう場合には、彼女の赤い服装が雪のなかで大いに発見を早めた。すると彼女は、いつもスキイが脱げて立っていた。それを穿かせようとして、多くの男が即座にCRESTA・RUNを開始した。みんな一ばん先に彼女の助力へ走ろうと争ったが、これは、例外なくロジェル・エ・ギャレが勝つに決まっていた。それは決して、彼がスキイの名手だったからではなかった。つねに彼女のそばにいて、彼女のスキイに事件が起るや否、誰よりも早く奉仕出来る手近かな地位を占めているためだった。彼は、たとえ神様の命令でも、この特権を他人に譲ろうとはしなかった。早朝からNANの動静をうかがっていて、彼女が自室でスキイの支度をしている時は、すっかり用意が出来てホテルの玄関に待
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