たか。お解りになりましたら、外套を脱ぐことだけは見合せて下さい。もし強いて脱ぐと仰言《おっしゃ》るんでしたら、私とこの名前は知りませんが、私の同室者は、きっと、私達の大嫌いな徳律の命令に服従して、寝台車掌《コントロルウ》を呼んで、あなたを、あなたの車室まで送り届けなければならないことになるでしょう。それは、実に不愉快な事業で、私達も、その必要に迫られたくはないのです。』
この駁論が作用して、一時彼女に、外套をぬぐことを中止させたらしかった。
すると、そこへ、いま私が引用したばかりの寝台車掌が、飲酒の形跡と一しょに、顔を出した。もうこの部屋が最後だから、寝台を作らせてくれと言うのだ。
私達は、眼で合議した。そして、私が答えた。
『困ったことには、私はまだちっとも眠くないのだ。』
『それからここに一つの告白がある。』
ルセアニア人が続いた。
『この頃、頑固な不眠症が取っ憑《つ》いていて、僕を離れないのです。』
『そう来なければうそです。』彼女がアストラカンの中から叫んだ。『多分私たちは、羅馬《ローマ》へ着くまでのこの一晩を、自由に語り明かして使うことでしょう。共通の新しい思想に昂奮している私達にとって、寝て過ごすべくあまりに惜しい今夜ですから――。』
車掌は、勝手にと言うように、帽子へ手をやって、廊下へ退いた。車扉《ドア》が流れて、音とともに外部を遮断した。
彼女は、私達に向き直った。
『私は、多くの愉快な話材を、旅行用として、身体《からだ》のあちこちに隠しているのです。』
こう言って、彼女は立ち上った。
『何という常識のない暑さ! 私の判断では、確かにこの汽車は機関の余剰スチイムを車内へ向けて濫費しています。』
そうして、彼女は、私達が抗議するひまもなく、今まで彼女を、外見上ほかの女と同種に呈示《プレゼント》していた、その唯一のアストラカン外套の扮装を、とうとう見事に拒絶してしまったのである。
私たちは、恥じ入った。ルセアニア人は、自分の神経と感覚を保護するために、出来るだけこの国際裸体婦人同盟から遠ざかって、窓ぎわの壁に密着した。彼は、溜息を吐《つ》いた。
無警告に、裸体の全身が上へ伸びた。そして、彼女の手が、壁のスイッチに触れた。それが、もう一つ、万国寝台会社の到れり尽せりの魔術的設備となって現われた。車室の電灯が、緑色に一変したのだ。天井に、二つの電灯が一つずつ点《つ》くように仕掛けしてあって、釦鈕《スイッチ》を捻ると、白い光りが自動的に消えて緑いろのが生き出すのだった。
こうして、室内を濃い緑色に落して置いて、彼女は、その裸体を元の位置に返した。
空気は、青苔の細胞で充満された。その密度を通して見る彼女の皮膚は、日光を知らない深海の海草のように、不気味に濡れていた。
彼女は、脚を組んで、両手を膝へ挟んだ。
『これでいいでしょう。緑いろの光線は、正しいことを考えるのに相応《ふさわ》しいものです。』
私たちは、一時紛失した落着きを、すこしずつ取り戻して、国際裸体婦人同盟員の示威運動が、あまり邪魔にならなくなり出した。
それでも、ルセアニア人は、先刻《さっき》から、ZIPの手鞄を開けて取り出した|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》を、しきりに鼻へ当てていた。これは、気付けのためである。彼は、それを、まだ続けていた。
汽車は、レイルを噛んでは、うしろへ吐き出した。外部の重い闇黒《くらやみ》のなかで、もうジェノアが近づいているに相違なかった。どこかに港のにおいがすると、私は思った。しかし、それは、過度の熱気に一層発散し出して、この狭いコンパアトメントを今にも爆破しようとしている、窒息的な彼女の体臭を、私がそう誤認したのかも知れなかった。
暫らくは、快活な汽車の奏楽と、緑いろの半暗電灯だけの世界だった。
彼女は、自分の乳首の検査に熱中していた。が、直ぐ、彼女の顔が、私の方向へ起き上った。
『あなたは、新聞記者《ジョナリスタ》ですね。』
驚きを隠すために、私は、答える前に、自然らしく耳の背部を掻いた。
『もしそうだとしたら、あなたはどうしてそれを御存じですか。』
『簡単なことですからです。ヴァンテミイユの旅券係のまえで、私は、あなたの直ぐうしろに立っていました。』
これは、じつに満足な解答である。私は、そう言って笑い消すことによって、この話頭の転化を計ろうと望んだ。が、結果は、かえって彼女の追求を招いただけだった。なぜと言うに、彼女は、急に非常な秘密を打ち明ける人のように腰をずらして、出来るだけ浅く寝台に掛け直したからだ。
そして、緑色の舌の先で、下唇を舐《な》めた。
『あなたはジョナリスタです。その他、私には、あなたに関するいろいろなことが判ります。第一、あなたはこれから、羅馬《ローマ》へ行って、シニョオル・ムッソリニに面会を申込もうとしている――そうでしょう?』
『何らの根拠もない、恐るべき断定だ!』
私は、ルセアニア人に、援助を求める眼をやった。しかし、彼は、彼の|嗅ぎ塩《スメリング・ソルト》といっしょに非常に多忙だった。私は、単独で彼女に対抗しなければならなかった。
『一体誰が、そんなことを言いました。』
『読心術《テレパセイ》です。私は、ノルマンディの漁村で、不思議な力を有する一人のお婆さんから、読心術《テレパセイ》の手解《てほど》きを受けたことがあります。』
『おやおや? あなたの裸体に対する僕の心持だけは、読まれると困る瞬間がある。』
ルセアニア人が、彼の楽しい塩壜の上から、声を持った。
『どうぞ茶化さないで下さい。ですから、私には、大概の人が、その希望も、その個人的難境も、一眼で判断出来るのです。そこで、当面の問題へ帰るとして、第二のあなたは、ムッソリニに会ったら、政治哲学上の議論などを吹っかけることは極度に排斥して、飽くまでも、亜米利加《アメリカ》産の訪問記者手法で往こうとしているでしょう。つまり、専門の智識なんかすこしも持ち合わせていない、無邪気な顔をして、莫迦げ切った質問ばかり発します。そうして、それによって、その返答を素材に、こっちで勝手に、あなたの好む通りの「人間」を拵《こしら》え上げる。それは、この上なく賢明な遣《や》り方です。公衆《パブリック》は、自分達の偶像との、こういう電光石火的面談記《ライトニング・インタヴュウ》に胸を躍らせて愛読すべく、ジャアナリズムの英雄達によって、もう充分に教育され尽していますから、今あなたが、ムッソリニに対して、この方法を採用すれば、或る程度までの効果は期待していいはずです。』
私は、一々自分の意図が、この国際裸体婦人同盟員の口から繰り出されるのに、新奇な驚異を経験しながら、それなら、仮りに私がムッソリニに会うとしたら、私は、果してどんな質問を次ぎつぎにポケットから取り出して、ムッソリニのどこを狙って投げつけべきであろうかと、彼女に訊いてみた。
彼女は、そこから名案を叩き出そうとでもするように、一つの握り拳《こぶし》で、暫らく手の平を打ち続けたのち、やがて、注意深い小鳥のように、首を曲げて、言い出したのだった。
[#ここから天付き、折り返して2字下げ]
『1 一日に何時間眠りますか。或いは、何時に寝て、何時に起きますか。
2 一番好きな食物は?
3 一番嫌いな食物は?
4 一番好きな葡萄酒は?
5 一番好きなスポウツは?
6 一番好きな格言は?
7 一番好きな史上の人物は?
8 一番好きな煙草は? そして、それを一日に何本お喫《す》いになりますか。
9 本はいま何をお読みですか。
10 あなたの養生法は何ですか。
11 もし、日課的に散歩なさるなら、規則《ルウル》として犬をお伴《つ》れになりますか。
12 あなたは、何個国語を話しますか。
13 物心ついてからの、最初の記憶は何ですか。
14 何があなたの少年時代の野心でしたか。
15 あなたの一番幸福な瞬間はいつでしたか――今のほかに。
16 あなたは、新しい靴のために足が痛む時は、いつもどういう方法を講じますか。
17 忘れましたが、珈琲《コーヒー》には砂糖をお入れになりますか。お入れになるようでしたら、一つですか。二つですか。
18 私は、あなたから読者への伝言《メセイジ》として、何を伝えたらいいでしょうか。
19 このあなたのプロマイドに署名して下さい。
20 いろいろ有難う御座いました。さよなら。
[#ここで字下げ終わり]
そして、必ず正面を向いたまま、戸口まで後ずさりに歩いて、退出するのです。しかし、これには、絨毯に蹴躓《けつまず》いたり、出口のつもりで書棚の硝子《ガラス》戸に手をやったりしないように、大変な注意を要します。が、これだけ引き出せば、どんな偶像でも、人間の片鱗《へんりん》は覗かせるだろうから、そこを掴めばいいと、あなたは簡単にお考えのようですね。ところが、ムッソリニの場合だけは、例外なのです。』
4
私は、これらの彼女の思いつきは、すべて正当なもので、私も、ちょうど彼女と同じ内容の質問戦を計画しているところかも知れないと、彼女に告げた。しかし、それは、明かに彼女が、既定の事実として勝手に決めている、私とムッソリニとの面会を前提にして、始めて必要の生じるジャアナリステック準備であって、正直のところ、私は、私の大事なペンを翳《かざ》して、シニョオル・ムッソリニに肉迫するかどうか、私自身決めていないのである。と言うよりも、私の偽らない心持のなかでは、否定説のほうが有力だったのだ。問題のベニト・ムッソリニ氏は、この何年かの間に、世界各国のあらゆる新聞雑誌記者と、外国での記念《スウベニア》という他愛もないがらくた[#「がらくた」に傍点]を熱愛する旅行者の大訪問群によって、一日に何十回の面接と談話とで、すっかり職業的に荒らされてしまっているに相違ないことは、誰でもの常識内で許される想定だ。その彼を、すこし時節外れのこの頃になって襲撃するほど、私は、「去年の林檎《りんご》」でありたくない気が強かった。私は、常に明日に生くる自負を持っている。この意味で、いま話頭に上っている「今日の人」は、それだけで、私の感興を惹くべく既にすこし古いのだ。それに、英雄崇拝という変態宗教は、私に来るところの最後のものである。だから、私は、半ば以上、この「黒|襯衣《しゃつ》を着た世紀の怪物」を、一瞬間でも邪魔することなしに、彼を、彼の大好きな首相、外相、飛行大臣、拓殖大臣等々々の七つの大臣椅子の上に、彼の讃美者に取り巻かせたまま、幸福にしておいてやることにしようと決心していた。そのかわり私は、羅馬《ローマ》のホテルの酒場で、アルコホルが語らせる旅客の伊太利《イタリー》観から、より多くの真実を掴み出そうと耳を立てるであろう。そして、どこの都会ででもして来たように、私は、この鞄の底から放浪者の仮装一式を身につけて、幾晩も続けて臭い裏街の彷徨に徹夜するだろう。私は、ベニト・ムッソリニよりも、このほうを好むのだ。
こういう言葉で、私は、しっくりと彼女の裸体を包んだ。
多くの社交室をこな[#「こな」に傍点]して来たらしい、噴水式の彼女の笑いには、私に対する失望と賛成があった。彼女は下腹部の黒子《ほくろ》を押して、その弾力を享楽しながら、言った。
『あなたは素晴らしい空想の所有者です。そして、この場合、その空想は適中しているかも知れません。私は、ただ、巴里《パリー》への旅行者が、必ず一度はエッフェルへ昇るように、羅馬《ローマ》へ来る人は、初代|基督《キリスト》教徒の地下街《カタコンブ》と、カプツィニの人骨堂と、ベニト・ムッソリニだけは、誰でも、旅程の第一日に据えて参詣して行くものですから、きっとあなたも、クイリナアレ政庁への訪問者に相違ないと思ったまでのことです。あなたが、伊太利《イタリー》へ来てムッソリニを無視するのは、それだけでも、あなたの公衆にとって大きなセンセイションでなければなりません。実は、一人ぐらいムッソリニに会いた
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