女は、俄かの喜悦を示すために、外套の襟を抱き締めた。そして、前屈《まえかが》みの姿勢を採って、私達二人を聴衆に、こういう驚くべき秘密結社の暴露に着手したのである。
『明らかに、あなた方は、まだ、国際裸体婦人同盟に関して、何らお聞きになったことはないと見えますね。女でさえ今は裸体を主張しているのに、男の方が、靴下一枚でいたって、それが何でしょう? 国際裸体婦人同盟は、アントワアプに本部のある最左翼解放運動の前線で、言わばその独立活動隊です。会員は、目下|欧羅巴《ヨーロッパ》じゅうに七十人あまりですが、そのなかには、あの「|幸福な白痴《ハッピイ・フウル》」を書いた倫敦《ロンドン》の劇作家モウド・ハインもいます。巴里《パリー》の雑誌記者が三人います。リデルヒブルグ大学の生物学教授シャンツ夫人もいます。最近では、ワルシャワ歌劇団のソプラノ花形のリル・デ・メル嬢と、ルツェルンの美容師で、六十七歳になるお婆さんとが加盟しました。そのほか、詩人、労働運動者、音楽家など、勿論みんな智識階級の女ばかりです。』
 彼女は語を切って、自分は何も国際裸体婦人同盟の宣伝をしているのではないと、私達を誤解から切断しようとした。私たちは、私達も今ちょうどそういう話を始めるところだったからと言って、彼女に、続けることを頼んだ。
『同盟の信条は、ごく簡単です。年中裸体で生活すること。これだけです。但し、外套と靴下は特別に許されることになっています。外套は、必要に応じて寒気を防ぐため。そして靴下は、跣足《はだし》で歩いていい設備が、まだ多くの都市に出来ていないものですから、仕方なしに靴をはく、その附属品としてです。が、そういう方面の訓練の全く欠けている、教養のない男達の眼から、私たちが裸体でいることを隠すために、私達は、四六時中どんな要心を強いられていることでしょう! 余計な注意を惹いて悶着を起したくないからです。それでも、私たち国際裸体婦人同盟の会員にとっては、裸かでいるほうが遥かに自然なのです。近代の女は、現世紀の狂気じみた性の騒ぎには、飽き飽きしました。性のことなど、問題にすべきではないのです。誰が、食べ物のことをそう喧《やかま》しく言う人があるでしょう? 性は、はじめから種族的な「縦の本能」に過ぎません。人間には、もっと社会的な「横の仕事」がたくさんあるはずです。ところが、この簡単な「性」に神秘を着せるのが、われわれの着物です。一体着物というものは、支配階級が、富と権力を誇示して民衆を脅《おど》かしつけるために発明されたものではないでしょうか。それは徳律や宗教や評判のいい学説と同じに、現在の社会制度を支持するほか、何の役目もしていないのです。』
『すべてが習慣なのだ。』
 ここで、ルセアニア人が考え深そうに言った。
『だから、われわれは新しい習慣を創造しさえすればいいのだ。そして、それを、一般が不審がらずに受け入れるまで、闘って押しつけることだ。』
『そうです。その通りです。だから人間は、ことに女は今、男の前に真っ裸になる必要があるのです。衣服は、在来のすべての社会的罪悪の母でした。裸かですと、人は絶えず内省します。そして、対人関係と、それを総合した社会における個の位置と進展の方向とを、はっきり認識することが出来るでしょう。そこに、近代的に健康なスポウツマンシップも、理論上一つの瑕《きず》もない完全な自由も発見されるわけです。』
『そうすると。』
 と私も、何か彼女の議論の助けになるようなことを、早く言わなければならない義務を感じ出した。口を閉じた彼女が、黙って私を激励した。それが私を、さっそく勇敢な独断家にしてしまった。
『そうすると、あらゆる意味での装身を景品の一つにして、こんなにまで個人間の自由競争を亢進させてその利をはんでいる狡猾な資本主義もお洒落な都会人に関する限り、その魅力の半分を失くすることになりますね。』
『勿論です。』彼女の顎が襟の開きを打った。『各方面から切り崩さなければならないほど、資本主義は、あまりにしっかり[#「しっかり」に傍点]無智な人間を把握しています。ちょっと考えても解ることではないでしょうか。近代の女が、まだ着物を着てるなんて、何という古い醜さでしょう! 彼女らの言語でいっても、それは実に嗤《わら》うべき流行遅れなのです。しかし、何事もはじめの間は厄介なものです。一番いけないことは、男が、女の裸体に慣れていないことです。けれど、これは無理もありません。が、そのうちには、マデレイヌもボンド街も第五街も、通行の裸かの女で充満する日が来ることでしょう。それが、国際裸体婦人同盟の理想なのです。これは必ず実現するにきまっていますが、そうなった日、女を見る男の眼も、自然変って来なければなりません。一般の女を、女としてより先に、まず人間として眺めて、そして、一般の女のなかからさえ、性ばかりでない、もっと価値あるもの、もっと智的なものを探し出そうとするでしょう。性は詰《つま》りません。お互いですもの。』
 つまり彼女によれば、国際裸体婦人同盟は、この、世紀的に古い誤謬に毒され切っている男達を、その可哀そうな状態から救い出すための、親切な教育団体だと言うのだ。私達は、彼女の説に、異常な恐怖と好奇と感謝を感じながらも、それを表面に現わさないだけの努力を必要とした。すこしでも、「この瞬間の傾向」の背後に立っていると思われたくない虚栄心が、私たちという二人の男を強く支配している事実に、私は気がついていた。したがって、近く彼女が示そうとしているであろう彼女自身の実証に対しても、私たちは、それを待ちあぐんでいることなどは気振《けぶ》りにも見せなかった。実際、若いルセアニア人は、そんなところは何|哩《マイル》も先に行ってると言ったように、しきりに欠伸《あくび》をしていたし、私は、出来るだけ詰らなそうに、度《た》びたび窓の外を覗かなければならなかった。硝子《ガラス》が一面に塩を吹いて、何も見えはしなかったけれど。
 私は、汽車の両腹を撫でて、非常な速力でうしろへ逃げて行く暗黒《くらやみ》の音を聞いた。
 それは、長靴の膝に当る地方の深夜だった。そして、停電は沿線全体のものだった。
 彼女が言っていた。
 一九二八年の暮れだった。そこは、伯林《ベルリン》の雑沓だった。電車を降りようとしていた彼女は、無礼な群衆の不注意から、彼女の外套の下を瞥見されるような過失を結果してしまった。そういう訓練のない男達の眼が、彼女に一斉射撃された。警官が来た。彼女は既に、拘引と、そして退屈きわまる訊問とを覚悟していた。が、警官は、警察へ同行するかわりに、保護と称して、暗い公園の奥へ彼女を伴《つ》れ込もうとしたというのだ――。
『救われない!』
 ルセアニア人が叫んだ。すると彼女は、啓示を受けた人のように、急に起《た》ち上ったのである。
『一たい誰が、あなたに着物を着ることを教えましたか。』
 そして、彼女は、今まで片手で押さえていたアストラカン外套の前を、手早く開けて見せた。下には直ぐに、薄桃色の曲線と、円味《まるみ》を持った面《おもて》とが、三十年近く生きて来て、たる[#「たる」に傍点]んでいた。毛穴が、早春の地中海の夜気を呼吸して、全体をすこし粟立《あわだ》たせているように、私は観察した。
『ポケットがなくて、不便です。』彼女が打ち明けた。『が、靴下を吊る仕掛けのほか、私はいつもこれで、そして、誰よりも一番好い着物を着ているつもりです。』
 私達は、あわてて賛成した。彼女は、もう一度、アストラカンの前を合わせて、濡れた気体か何ぞのように、ルセアニア人の寝台の端に固くなった。それが彼女を、急に疲れて見せた。
『あなた方が、私のこの服装を気にするほど、反動的でなければいいがと思います。』
 私は、第一、そうして外套さえ掻《か》き合わせていれば、絶対に私達の眼に入りっこないし、仮りに外套を脱いだところで、私も、私の同室者も、そんな小さなことからは解放されているからと言って、彼女を安心させた。そうすると彼女は、まだ自分の服装のことを考えて、それを話題に上《のぼ》すような仕方は、まるで今までの普通の女と同じで、同盟員が目的にしている若々しい反逆――実は、それは、単なる純理論の実行に過ぎないのだが――には、何らならないと反省して、淑《しと》やかに自分を責めた。それから彼女は、耳の上に挟んでいた喫《の》みかけの葉巻をくわえて、ううう[#「ううう」に傍点]と唸《うな》りながら、私達に燐寸《マッチ》を催促するために、それを擦《す》る手真似をした。

     3

 トラモンタナと呼ばれる狂暴なアルプス颪《おろし》が、窓の外に汽車の轟音と競争して、私達に、今夜は暗いばかりでなく、恐らくは、粉雪を含んで寒いのであろうことを、間断なく報《し》らせていた。
 しかし、私達のコンペアメントは、感謝すべき装置で一ぱいだった。そこにはまず、万国寝台会社が、旅行好きな公衆と同業者とに誇る、そして誇っていい、照明と煖※[#「火+房」、203−1]《だんぼう》と装飾とが、好意ある経営をもって往き届いていた。
 模様入りの人造革を張り詰めた室内の壁には、白樺材を真似た塗料が被《き》せてあった。鋲《びょう》が、掃除婦の忠実を説明して、光っていた。窓では、眼科医の色盲検査布のようにいろいろに見える、が、その実ただの緑いろの厚いカアテンが、私達の賞美を得ようとして、大げさに揺れていた。その下に、折曲げ式の、皮張りの板が立てられて、机の代用をしていた。それは、ルセアニア人の旅行用香水壜と、私のクック版大陸時間表とを支えていた。大陸時間表は、いくら私が注意して離して置いても、五分もすると、汽車の動揺に乗じて革の上を滑って行って、しきりにルセアニア人の香水壜に接吻しては、恋をささやいていた。が、この事実に気が付いたのは、私だけらしかった。で、私は黙って、二つを放任することにした。仏蘭西《フランス》語の文法から言えば、煤煙臭い大陸時間表は男性で、香水は、もちろん女性に相違なかったから。
 そのほか、私の正面には、ルセアニア人の羸弱《フラジル》な眼鼻立ちがあった。彼は、頸《くび》へ青い血管を巻いて、蓴菜《じゅんさい》のような指を組んでいた。そして、国際裸体婦人同盟員の耳へ、訳の解らない口笛を吹きつけていた。
 私が、視線を移動すると、今度はその尖端に、アストラカンの間から電灯へ微笑している彼女の胸部が、ぶら下った。光線は、何度反撥されても、露出している彼女の部分を愛撫しようと試みた。それは、酔った好色紳士のように、しつこかった。
 とうとうしまいに、我慢し切れなくなって、彼女は、外套を脱ぐと言い出した。そして、その弁解として、この部屋は熱帯性の怪物であると論断した。実際、室内は、万国寝台会社の心づくしのために、まるで赤道下の貨物船の釜前《ダウン・ビロウ》のように暑かったのだ。が、この、彼女に外套を脱がれることは、私達の一番恐れているところだった。そこで、私は、ルセアニア人と素早く無言の評議を交したのち、二人を代表して、彼女に申し入れたのである。
『私たちは、もう暫くの間、表面古風な女としてのあなたを眺めていたいと思うのですが――。』
『なぜでしょう。』
 アストラカンを肩まで辷《すべ》らせたまま、彼女が反問した。
『こんなに理解のある方々とだけ、排他的に同席出来るということは、私にとって珍しい名誉です。私は自分の健全な自由さを極度に享楽出来る、こういう好機会を逃がしたくありません。』
『御尤《ごもっと》もです。しかし、ほんとのことを言うと、その、あなたの健全な自由に価値するほどの、教養も、準備も、自信も、まだ私達には出来ていないのです。私は決して、伝統という幽霊に屈服しているのではありません。ただ、あなた方の採用した新しい生活様式と、その刺戟には、まだすこしばかり慣れていないというだけのことなのです。言い換えれば、あなたの「服装《コスチュウム》」の前に、私達は、私たち自身が恐ろしいのです。お解りになりまし
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