くないという旅行者が出て来ることを、私は、ひそかに望んでいたのです。』
『なぜそのことが、そんなにあなたの関心を強いますか。』
『私の性格が、すべて反対を好むからです。全く、ムッソリニは誰にでも合いますし、また誰でも、外国から来た人は、彼に会いたがるようです。どうして、あんな立憲政体の変態者が、こんなにまで反動主義者の世界的賞讃を博するようになったのでしょう? きっとそれは、彼が社会主義への裏切者であるからに決まっています。私には、ほかに正しいと思われる答案が発見出来ないのです。野蛮なほど自信と精力の強いブルジョア政治家なら、どこの国も、彼以上の紳士的悪漢で一ぱいで、それぞれ持て余しているはずではありませんか。伊太利だったからこそ、彼も、羊の群の獅子として、その自己集権慾を満足させることが出来たのでしょう。要するに、彼は、人気を取っていないように見せかけて人気を浚《さら》ってしまう、顔の怖いお上手者に過ぎないのです。私達には何らの関係もない、古風な、過失的存在です。』
『僕は、彼は東洋人ではないかと思う。』
ルセアニア人が、逡巡《しゅんじゅん》しながら、割り込んだ。彼女が、受け取った。
『東洋人ではありますまい。しかし、彼の顔には、純粋の白人らしくない暗示が見られます。』
『と言うと、どういう意味ですか。』
『彼の奉ずる力の讃美には、もっと太陽に近い土地の、砂漠と大植物との、黒色の哲学が潜んでいるような気がしはしませんか。』
『立派にあり得ることです。伊太利《イタリー》、西班牙《スペイン》、葡萄牙《ポルトガル》などの、南|欧羅巴《ヨーロッパ》の羅典《ラテン》系文明が、近世に到って一足遅れたのは、奴隷として輸入された黒人の血が、雑婚によって吸収されたためだと言う説があるくらいですから。血統のどこかに、飛び離れた異人種を持つ家は、往々にして巨人を出すものです。』
『爪を見れば、判るそうではありませんか。』
『しかし、ムッソリニという名は、古い伊太利名です。「ムッソリニ」は普通名詞のモスリンから転化したもので、つまり、彼の家は、職業世襲時代に、代々モスリンの織匠だったのでしょう。』
『そういうことは、私の国の日本にもあります。ちょうど、ムッソリニと同じ語源に、織部《おりべ》というのがある。』
『とにかく、先刻《さっき》私が言ったように、彼は誰にでも会います。亜米利加《アメリカ》から来た、下着の旅行販売人《トラヴェリング・セイルスマン》にも、インクの流れるように能弁な万年筆の行商人にも! それでも、はじめのうちは、人に自分を見せることの政策的な必要と利益から、今よりももっと多量に、俳優的態度で引見することを好んだものです。近頃は、それ程でもありませんが、今は外交関係から、殊に亜米利加人に盛んに会いつつあるということです。』
『彼は、亜米利加へ移民を送ることを止《よ》して、そのかわり、仏蘭西《フランス》との国境地方あたりへ国内植民を始めているそうではありませんか。そのために、仏蘭西が、すこし警戒し出したというような噂も聞きましたが――。』
『ブルジョア国家という、現在の人類生活の単位は、その人類である私達の日常生活には、何らの交渉もない事件のために、しじゅう忙がしがってばかりいるのが、その特性です。』
『法王庁とムッソリニは?』
『あなたは、いつの間にか、私を「訪問」していますね。結構です。彼は、三月の総選挙に、加徒力《カトリック》教徒の人気が入要なはずですから、悦《よろこ》んで、その前に、ヴァテカンと伊太利《イタリー》との握手の世話役に立つことでしょう。』
『皇帝と彼とは?』
『この間伝えられた、あれは、全然嘘報でした。巴里《パリー》で発行される、反ファッシズム新聞「|黄色い嘴《ベッコ・ジャロ》」紙の投げた逆宣伝の一つに過ぎません。』
ここで、彼女は、私達からの、これ以上の質問を拒否するために、ジャズのカスタネットのように細かく笑って、両腕を抛り上げた。
脂肪が圧搾《あっさく》されて、肋骨の装飾が現れた。
『今まで私は、まるでナポリの案内人のように饒舌《しゃべ》って来ましたね。そして、私は、何という不注意な女でしたろう! ムッソリニ、ムッソリニと大きな声で言って、しかも、総選挙だの、黄嘴紙《ベッコ・ジャロ》だのと! 人が聞いたら、どうしましょう! それは、怖いものを知らない者のすることです。なぜなら、密偵は、空気のようにどこにでも這入り込んでいるからです。これはソヴィエト・ラシアとムッソリニ政府だけが、ほんとに世界的に誇り得る制度なのです。この汽車も、そういう密偵達をぎっしり満載していることでしょう。あなたが、その一人かも知れない! この方が、そうかも知れない! あの、先刻、寝台を作りましょうかと言って来た、不随意筋ばかりで出来てるような寝台車掌《コントロルウ》! あの男は、確かにクイリナアレの廻し者です! 私の読心術《テレパセイ》は、決して私を欺《あざむ》きません。それから、あなた方は気が付きましたかしら。この、一つ置いて前のコンパアトメントにいる、商業から教会へ引退したばかりの肉屋のような、フロック・コウトの肩に赭《あか》ら顔を載せて、靴紐《くつひも》で鼻眼鏡を吊ってるお爺さんこそは、言うまでもなく密偵に決まっています。実際、市場、ホテル、料理店、街角、音楽会、今の伊太利《イタリー》は、もとの乞食のかわりに、憲兵と、売子、観光客、給仕人、花売りなんかに化けた密偵とで、隙間もなく覆い尽されているのです。そして、もし人民がムッソリニなどと言っているのを聞こうものなら、好《よ》くても悪くても、忽《たちま》ち彼らの眼が光ります。ですから、不必要な嫌疑を招きたくない一般の人々は、お互いに注意し合って、ムッソリニという名を口にしないようにしています。銘々それに代る略号を発明して、用を達すのです。で、私達もこれ以上この色彩的な話題を進めて行こうとするなら――。』
ちょうどこの時、急に車内に、叫喚と呶号の無政府状態が始まった。車輪の下に鉄橋が横たわり出したのだ。
彼女は、眉を下げた。そしてその横暴な音響と闘って、言語を、私達の聴神経まで届けるために、直ちに、可笑《おか》しいほどの努力に移った。
咽喉《のど》を紫にして、彼女は、あとを絶叫した。
『――綽名《あだな》をつけましょう! 三人の間で。ベニイ!――ベニイと。私はいつも、自分の創造力を自慢しているのです。これなら、判りっこありません。聞えますか。ベニイなら、大・丈・夫! ベ・ニ・イ!』
5
彼女の大声が終らないうちに、鉄橋が済んでしまったので、最後の「ベ・ニ・イ!」は、大音響の直ぐ後の静寂に残されて、喧嘩のように、突拍子もなくひびいた。
私達は、真夜中を忘却して、笑った。
すると、彼女は、演説者のように腰骨へ両手を置いて、突然、前後とすこしの関係もない奇怪な声を、詩の一節のように発し出したのである。
『Meglio vivere un giorno da leone !, che cento anni da pecora ――どなたか、新しい二十リレの銀貨をお持ちですか。お持ちでしたら、出して、読んで御覧なさい。それは、ファシスト政府の鋳造したもので、裏に、ベニイの言葉と伝えられる、こんなモトウが迎彫ってあります――めりよ・びいぶる・うん・じょるの・だ・れおね・け・つぇんと・あに・だ・ぺこら――羊として百年生きるよりも獅子として一日生きたほうが増しだ。何という、腕力的な野心でしょう! 何という旺盛な積極的人生観! しかし、すこし非科学的なようですね。すくなくとも、こういう英雄主義は、現代のものではありません。文句自身は、ベニイ個人の場合に限って、大出来でしょう。が、貨幣は、その性質として、誰の手にでも渡るものです。そして、この叱咤《しった》は、羊のように弱い人にとっては、すこしばかり強過ぎるのです。つまり、あまり露骨にファシスト的だというので、それは、一般に評判の好《よ》くない新貨ですが、あなた方は、どうお考えですか。』
『私は、勇敢で面白いと思います。』
『それは、あなたが青年だからです。いかがですか。また、ベニイに会ってみたくはなりませんか。ベニイに面会するためには絹高帽《シルク・ハット》と、モウニング・コウトと、閣下《ユア・エキセレンシイ》という敬語と、些少の礼譲と、多分の微笑をさえ用意して行けばいいのです。しかし、あなたは、いつか日本の代議士がしたように、特にそのため、前の晩にホテルの寝台で読んで来た、政治哲学めいた翻訳書の知識から、生硬な二、三の問題を出して、彼を苦笑させたりしてはなりません。ベニイは、彼の有名なる額部を光らせるばかりで、決して答えようとはしないでしょう。そういう議論にたいして黙っている時、彼は、ことのほか政治哲学の教授のように博識に見えるのです。そして、彼も、そのことをよく知っているのです。しかし、あなたも、絹高帽《シルク・ハット》の扱いにだけは、相当慣れるための下稽古が要ることでしょう。あの帽子は、置き場所に困る帽子です。だから、いよいよベニイの部屋へ通されて、あの眼と口が、あなたの前に立った時、あなたは、まず、あなたの絹高帽《シルク・ハット》をどこへ安置したものかと、魔誤々々《まごまご》するかも知れないのです。そして、狼狼《ろうばい》の極、秘書官に手渡ししようとしたり、或る亜米利加《アメリカ》人は、白手袋を投げ込んだまま、それをベニイに突き出して、持たせようとさえしました。が、これらは、すべて可哀そうな誤りです。あなたは、今あなたの一挙一動の上に、あの世界的に知られた、ベニイの白い視線があることを、忘れてはならないのです。そして、絹高帽《シルク・ハット》の置き場処は、所有者の頭のうえか、椅子に掛けた姿勢ならば、その膝の上といつも決まっているものです。で、絹高帽《シルク・ハット》を膝に立てると直ぐ、あなたは面談を開始するのですが、この場合、あなたは、先刻私が申し上げたような質問集で、すこしでも、ベニイの人間味を探り出そうなどと望んではなりません。彼は、あらゆる形式の面接にすっかり慣れ切っていて、どんなことがあっても、自分の影をさえ瞥見させるようなへま[#「へま」に傍点]はしないでしょう。従って、あなたに残された唯一の活動の余地は、室内を見廻して彼の事務家振りを推測することであり、灰皿の吸殻から彼の愛用する煙草を知ることであり、その一本を訪問記念としてこっそり[#「こっそり」に傍点]持って来るために、手を伸ばす機会を探すことであり、読んでいる本を突き留めるには、彼を押し退《の》けて、あなた自身、卓子《テーブル》の上下から抽斗《ひきだ》しを、根気よく捜索しなければなりますまい。何と、華やかな面会ではありませんか。』
『非常に面白そうなお話ですが、私は、残念ながら、やはり、彼を黙殺することに決めています。』
『そして、あなたは、仏蘭西《フランス》語か英語か伊太利《イタリー》語で、彼と、その二、三日の天気の批評をして、モウニングの尻尾を皺《しわ》だらけにして帰るのです。写真は、幾らでもくれます。署名《サイン》もします。最初に較《くら》べると、この頃は、そのほうが重々しいというので、すこし出し渋りますが、それでも、ベニイの机は、訪問者に持たして出す自分の写真で一ぱいで、その上、六人の写真師が、後からあとからと、日夜その複製に追われ続けています。署名用の万年筆に署名用インクを満たすためには、いつも、三人の秘書官が掛かり通しの有様です。そして、帰りがけに、あなたは、各国人を包んだモウニング・コウトの長列が、手に手に、官房主事の発行した、大型封筒の面会許可証を、切符のように握って、クイリナアレ政庁の長廊下に、忍耐深く待っているのを見かけるでしょう。』
『いよいよ私は、ベニイに面会を申込むまいという私の決心に、感謝しなければならない。しかし、あなたは、どうしてそう彼のことを知っているのです。』
『知る必要があるのです。彼は、私の敵
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