秘を着せるのが、われわれの着物です。一体着物というものは、支配階級が、富と権力を誇示して民衆を脅《おど》かしつけるために発明されたものではないでしょうか。それは徳律や宗教や評判のいい学説と同じに、現在の社会制度を支持するほか、何の役目もしていないのです。』
『すべてが習慣なのだ。』
 ここで、ルセアニア人が考え深そうに言った。
『だから、われわれは新しい習慣を創造しさえすればいいのだ。そして、それを、一般が不審がらずに受け入れるまで、闘って押しつけることだ。』
『そうです。その通りです。だから人間は、ことに女は今、男の前に真っ裸になる必要があるのです。衣服は、在来のすべての社会的罪悪の母でした。裸かですと、人は絶えず内省します。そして、対人関係と、それを総合した社会における個の位置と進展の方向とを、はっきり認識することが出来るでしょう。そこに、近代的に健康なスポウツマンシップも、理論上一つの瑕《きず》もない完全な自由も発見されるわけです。』
『そうすると。』
 と私も、何か彼女の議論の助けになるようなことを、早く言わなければならない義務を感じ出した。口を閉じた彼女が、黙って私を激励した。それが私を、さっそく勇敢な独断家にしてしまった。
『そうすると、あらゆる意味での装身を景品の一つにして、こんなにまで個人間の自由競争を亢進させてその利をはんでいる狡猾な資本主義もお洒落な都会人に関する限り、その魅力の半分を失くすることになりますね。』
『勿論です。』彼女の顎が襟の開きを打った。『各方面から切り崩さなければならないほど、資本主義は、あまりにしっかり[#「しっかり」に傍点]無智な人間を把握しています。ちょっと考えても解ることではないでしょうか。近代の女が、まだ着物を着てるなんて、何という古い醜さでしょう! 彼女らの言語でいっても、それは実に嗤《わら》うべき流行遅れなのです。しかし、何事もはじめの間は厄介なものです。一番いけないことは、男が、女の裸体に慣れていないことです。けれど、これは無理もありません。が、そのうちには、マデレイヌもボンド街も第五街も、通行の裸かの女で充満する日が来ることでしょう。それが、国際裸体婦人同盟の理想なのです。これは必ず実現するにきまっていますが、そうなった日、女を見る男の眼も、自然変って来なければなりません。一般の女を、女としてより先に、まず人間として眺めて、そして、一般の女のなかからさえ、性ばかりでない、もっと価値あるもの、もっと智的なものを探し出そうとするでしょう。性は詰《つま》りません。お互いですもの。』
 つまり彼女によれば、国際裸体婦人同盟は、この、世紀的に古い誤謬に毒され切っている男達を、その可哀そうな状態から救い出すための、親切な教育団体だと言うのだ。私達は、彼女の説に、異常な恐怖と好奇と感謝を感じながらも、それを表面に現わさないだけの努力を必要とした。すこしでも、「この瞬間の傾向」の背後に立っていると思われたくない虚栄心が、私たちという二人の男を強く支配している事実に、私は気がついていた。したがって、近く彼女が示そうとしているであろう彼女自身の実証に対しても、私たちは、それを待ちあぐんでいることなどは気振《けぶ》りにも見せなかった。実際、若いルセアニア人は、そんなところは何|哩《マイル》も先に行ってると言ったように、しきりに欠伸《あくび》をしていたし、私は、出来るだけ詰らなそうに、度《た》びたび窓の外を覗かなければならなかった。硝子《ガラス》が一面に塩を吹いて、何も見えはしなかったけれど。
 私は、汽車の両腹を撫でて、非常な速力でうしろへ逃げて行く暗黒《くらやみ》の音を聞いた。
 それは、長靴の膝に当る地方の深夜だった。そして、停電は沿線全体のものだった。
 彼女が言っていた。
 一九二八年の暮れだった。そこは、伯林《ベルリン》の雑沓だった。電車を降りようとしていた彼女は、無礼な群衆の不注意から、彼女の外套の下を瞥見されるような過失を結果してしまった。そういう訓練のない男達の眼が、彼女に一斉射撃された。警官が来た。彼女は既に、拘引と、そして退屈きわまる訊問とを覚悟していた。が、警官は、警察へ同行するかわりに、保護と称して、暗い公園の奥へ彼女を伴《つ》れ込もうとしたというのだ――。
『救われない!』
 ルセアニア人が叫んだ。すると彼女は、啓示を受けた人のように、急に起《た》ち上ったのである。
『一たい誰が、あなたに着物を着ることを教えましたか。』
 そして、彼女は、今まで片手で押さえていたアストラカン外套の前を、手早く開けて見せた。下には直ぐに、薄桃色の曲線と、円味《まるみ》を持った面《おもて》とが、三十年近く生きて来て、たる[#「たる」に傍点]んでいた。毛穴が、早春の地中海の夜気を呼吸して
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