暮しているのである。
私は、同室者として、彼の身の上を案じた。果して、国際裸体婦人同盟員は、ルセアニア人と、出来るだけ同じ空間を満たすべく決心したらしい。彼女は、その「服装」で、若いルセアニア人を、いきなり私の前から隠してしまった。
ルセアニア人は、死んだルセアニア人のように、彼女の体重に耐《こら》えて、声も立てなければ、身動き一つしないで、牧師のようにきちん[#「きちん」に傍点]と腰かけているのだ。それが私を笑わせた。
『何が、可笑《おか》しいのです。』
彼女の声だった。そして、それは、直ぐ、この自分の突飛な行動の事後説明に取り掛った。
『これに、すこしも性の意味がないとは、私は言いません。幾分あるようだからです。しかし、本能の処理は、恋愛とは全然別なものです。恋愛は、本能の享楽であり、処理は、どこまで往っても事務だからです。ところが、近代に到って、この本能の処理に、色んな思想や文学や都会生活やの扮飾が加えられて、それは、一見恋愛と同じ外観を備えるようになりました。その結果、この二つは、事実非常に紛らわしいために、現代人は、両方を一緒にしたり、本能の処理を恋愛と思い込んだりしています。つまり、本能の処理が、いつの間にか恋愛に接近するほど、それは、多くの装飾的な外面を持ち出したのです。けれど、二者の運命的な相違は、装飾恋愛の享楽性は、対者を条件とする内容にあるのに反し、本能の処理におけるそれは、要するに附帯物の作り出す一時的錯覚に過ぎないということです。では、一体何が、本能の処理に、これほどたくさんの夾雑物《きょうざつぶつ》を投げ込んで、近代人を惑わしているかと言うと、ここでも、資本主義の天才的狡猾さが、もう一度責められなければなりません。資本主義は、その蓄積した余剰価値の発散をこの方向へ集中して、こうして人の眼を眩惑し、それによって、すこしでも長く自分への人心を繋《つな》ぎ留めて置こうと計っているのです。おきまりの補助的方法が、また一つ、見事に成功したわけです。が、その手を直ちに逆に使って、私達は、この資本主義の奸手段に対抗することが出来ます。それは、その資本主義の煽動に乗じて、資本主義が一番大事な味方にしている道徳《マラリティ》を衝くことです。言い換えれば、与えられたあらゆる機会に、本能の処理を享楽するのです。実際、私達は、どんなにそれを享楽しても構いませ
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