てるような寝台車掌《コントロルウ》! あの男は、確かにクイリナアレの廻し者です! 私の読心術《テレパセイ》は、決して私を欺《あざむ》きません。それから、あなた方は気が付きましたかしら。この、一つ置いて前のコンパアトメントにいる、商業から教会へ引退したばかりの肉屋のような、フロック・コウトの肩に赭《あか》ら顔を載せて、靴紐《くつひも》で鼻眼鏡を吊ってるお爺さんこそは、言うまでもなく密偵に決まっています。実際、市場、ホテル、料理店、街角、音楽会、今の伊太利《イタリー》は、もとの乞食のかわりに、憲兵と、売子、観光客、給仕人、花売りなんかに化けた密偵とで、隙間もなく覆い尽されているのです。そして、もし人民がムッソリニなどと言っているのを聞こうものなら、好《よ》くても悪くても、忽《たちま》ち彼らの眼が光ります。ですから、不必要な嫌疑を招きたくない一般の人々は、お互いに注意し合って、ムッソリニという名を口にしないようにしています。銘々それに代る略号を発明して、用を達すのです。で、私達もこれ以上この色彩的な話題を進めて行こうとするなら――。』
 ちょうどこの時、急に車内に、叫喚と呶号の無政府状態が始まった。車輪の下に鉄橋が横たわり出したのだ。
 彼女は、眉を下げた。そしてその横暴な音響と闘って、言語を、私達の聴神経まで届けるために、直ちに、可笑《おか》しいほどの努力に移った。
 咽喉《のど》を紫にして、彼女は、あとを絶叫した。
『――綽名《あだな》をつけましょう! 三人の間で。ベニイ!――ベニイと。私はいつも、自分の創造力を自慢しているのです。これなら、判りっこありません。聞えますか。ベニイなら、大・丈・夫! ベ・ニ・イ!』

     5

 彼女の大声が終らないうちに、鉄橋が済んでしまったので、最後の「ベ・ニ・イ!」は、大音響の直ぐ後の静寂に残されて、喧嘩のように、突拍子もなくひびいた。
 私達は、真夜中を忘却して、笑った。
 すると、彼女は、演説者のように腰骨へ両手を置いて、突然、前後とすこしの関係もない奇怪な声を、詩の一節のように発し出したのである。
『Meglio vivere un giorno da leone !, che cento anni da pecora ――どなたか、新しい二十リレの銀貨をお持ちですか。お持ちでしたら、出して、読んで御覧なさい。それは、
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