は、いくら私が注意して離して置いても、五分もすると、汽車の動揺に乗じて革の上を滑って行って、しきりにルセアニア人の香水壜に接吻しては、恋をささやいていた。が、この事実に気が付いたのは、私だけらしかった。で、私は黙って、二つを放任することにした。仏蘭西《フランス》語の文法から言えば、煤煙臭い大陸時間表は男性で、香水は、もちろん女性に相違なかったから。
そのほか、私の正面には、ルセアニア人の羸弱《フラジル》な眼鼻立ちがあった。彼は、頸《くび》へ青い血管を巻いて、蓴菜《じゅんさい》のような指を組んでいた。そして、国際裸体婦人同盟員の耳へ、訳の解らない口笛を吹きつけていた。
私が、視線を移動すると、今度はその尖端に、アストラカンの間から電灯へ微笑している彼女の胸部が、ぶら下った。光線は、何度反撥されても、露出している彼女の部分を愛撫しようと試みた。それは、酔った好色紳士のように、しつこかった。
とうとうしまいに、我慢し切れなくなって、彼女は、外套を脱ぐと言い出した。そして、その弁解として、この部屋は熱帯性の怪物であると論断した。実際、室内は、万国寝台会社の心づくしのために、まるで赤道下の貨物船の釜前《ダウン・ビロウ》のように暑かったのだ。が、この、彼女に外套を脱がれることは、私達の一番恐れているところだった。そこで、私は、ルセアニア人と素早く無言の評議を交したのち、二人を代表して、彼女に申し入れたのである。
『私たちは、もう暫くの間、表面古風な女としてのあなたを眺めていたいと思うのですが――。』
『なぜでしょう。』
アストラカンを肩まで辷《すべ》らせたまま、彼女が反問した。
『こんなに理解のある方々とだけ、排他的に同席出来るということは、私にとって珍しい名誉です。私は自分の健全な自由さを極度に享楽出来る、こういう好機会を逃がしたくありません。』
『御尤《ごもっと》もです。しかし、ほんとのことを言うと、その、あなたの健全な自由に価値するほどの、教養も、準備も、自信も、まだ私達には出来ていないのです。私は決して、伝統という幽霊に屈服しているのではありません。ただ、あなた方の採用した新しい生活様式と、その刺戟には、まだすこしばかり慣れていないというだけのことなのです。言い換えれば、あなたの「服装《コスチュウム》」の前に、私達は、私たち自身が恐ろしいのです。お解りになりまし
前へ
次へ
全34ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング