、全体をすこし粟立《あわだ》たせているように、私は観察した。
『ポケットがなくて、不便です。』彼女が打ち明けた。『が、靴下を吊る仕掛けのほか、私はいつもこれで、そして、誰よりも一番好い着物を着ているつもりです。』
私達は、あわてて賛成した。彼女は、もう一度、アストラカンの前を合わせて、濡れた気体か何ぞのように、ルセアニア人の寝台の端に固くなった。それが彼女を、急に疲れて見せた。
『あなた方が、私のこの服装を気にするほど、反動的でなければいいがと思います。』
私は、第一、そうして外套さえ掻《か》き合わせていれば、絶対に私達の眼に入りっこないし、仮りに外套を脱いだところで、私も、私の同室者も、そんな小さなことからは解放されているからと言って、彼女を安心させた。そうすると彼女は、まだ自分の服装のことを考えて、それを話題に上《のぼ》すような仕方は、まるで今までの普通の女と同じで、同盟員が目的にしている若々しい反逆――実は、それは、単なる純理論の実行に過ぎないのだが――には、何らならないと反省して、淑《しと》やかに自分を責めた。それから彼女は、耳の上に挟んでいた喫《の》みかけの葉巻をくわえて、ううう[#「ううう」に傍点]と唸《うな》りながら、私達に燐寸《マッチ》を催促するために、それを擦《す》る手真似をした。
3
トラモンタナと呼ばれる狂暴なアルプス颪《おろし》が、窓の外に汽車の轟音と競争して、私達に、今夜は暗いばかりでなく、恐らくは、粉雪を含んで寒いのであろうことを、間断なく報《し》らせていた。
しかし、私達のコンペアメントは、感謝すべき装置で一ぱいだった。そこにはまず、万国寝台会社が、旅行好きな公衆と同業者とに誇る、そして誇っていい、照明と煖※[#「火+房」、203−1]《だんぼう》と装飾とが、好意ある経営をもって往き届いていた。
模様入りの人造革を張り詰めた室内の壁には、白樺材を真似た塗料が被《き》せてあった。鋲《びょう》が、掃除婦の忠実を説明して、光っていた。窓では、眼科医の色盲検査布のようにいろいろに見える、が、その実ただの緑いろの厚いカアテンが、私達の賞美を得ようとして、大げさに揺れていた。その下に、折曲げ式の、皮張りの板が立てられて、机の代用をしていた。それは、ルセアニア人の旅行用香水壜と、私のクック版大陸時間表とを支えていた。大陸時間表
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